心魔


須垣伴内は三十俵二人扶持、お目見えなどとは縁遠い微禄の武士であった。
ではあったが、藩校の頃は優秀で身分の割には人望もあったし、
藩内でも一二を争う短槍の使い手でもあった。
普通なら愚痴の一つも出るところだが、伴内の温厚な性格と
武士社会の構造への諦めからか、地道にお勤めを果たしていた。

ところが、折からの藩政改革の流れを受けて、
俄に勘定方への推挙の話が持ち上がった。
候補に挙がったのは伴内と、藩校時代から身分の差を越えて伴内を認めてくれていた
二百石取りの親友、上條忠征であった。
上つ方の意向では、実力が伯仲しているのであれば身分的に相応な忠征をとの
意見が勝っていたが、改革の主旨から微禄の優秀な者をとの意見も無視できなかった。
伴内はその情報を他ならぬ忠征から聞いていたのだった。
忠征は苦笑いしながらも、
「お主を置いて誰にやらせようと言うんじゃ。上つ方も迂遠なことよ。」
と心底伴内が候補に挙がったことを喜んでいた。
伴内もさっぱりした忠征が好きで、気の置けない間柄だった。

そんなある日、家に帰った伴内は忍び泣く妻の声を聞いた。
奥では伴内の母が妻を慰めていた。
「武士の妻たるものが米が無いくらいのことで動揺してはなりませぬ。
如何にしてでも急場は凌げましょうほどに、伴内殿には黙っておきなされ。」
伴内は気付かれないように戻り、玄関で帰宅を告げた。
奥からは素振りも見せない妻と母、二人の息子が笑いながら伴内を迎えた。

伴内の苦悩が始まった。
母や妻、息子達に辛い思いはさせたくない...
なんとしてでも出世がしたい...
この気持ちを忠征に告げれば、忠征が喜んで候補を辞退することも分かっていたが、
そこまで忠征の好意に甘えることは、伴内の矜持が許さなかった。
と言って、上つ方との繋がりなど全くない伴内にとっては、
いきなり贈答と言う訳にはいかなかったし、またその為の金もなかった。
苦悩の日々は続いた。

他愛もない噂話が伴内の耳に入った。
忠征は藩の金を着服しているんじゃないか...
忠征は藩の金をどうこうできるような立場になかったし、
忠征が近頃手に入れた自慢の銘刀を羨んでの話の中であったことが、
この噂の根拠の薄弱さを物語っていた。
それに伴内はその銘刀を見せてもらった時に、忠征の妻が嫁入り以来隠し持っていた
持参金をそれに当てた旨、当の忠征の妻の口から聞いていた。
酒の席でのことで、忠征も照れながら言ったものだった。
「俺が甲斐性無しだって言いたいのさ。」
だから、伴内はこの噂が根も葉もないことを確信していたし、
信じる者がいるとも思わなかった。

城代家老の門内にその短い投げ文があったのは翌日のことであった。
『上條忠征儀、藩金横領の嫌疑此有り候』
その後の展開はあれよあれよと言う間の出来事であった。
即日忠征は呼び出されて弁明に努め、その日のうちに無実も証明された。
しかし、忠征は無実とは言え、そのような中傷を受けたことを羞じ、
身の不明を先祖に詫びつつ自宅で切腹して果てたのが、その翌日であった。
伴内の元に勘定方への抜擢の決定が知らされたのは、更に二日後のことだった。

藩内では誰言うともなく噂が広まっていった。
人々の伴内を見る眼が冷淡になっていった。
望んだものを手に入れた伴内であったが、伴内の苦悩はより深刻なものとなった。
ふくよかだった顔も日に日に肉が落ちて鋭角的な顔立ちとなり、
穏やかで明朗だった性格が、暗く神経質なものとなっていった。

そして伴内は城中で脇差しを抜き放ち、己が首の血脈を断ち切った...


[封印]