第一回 夢窓国師祈りて天災を禳ふ 高階師直誤りて衆星を走らす(その肆)

 それはさておき、師直は怪異に遭ってから、何となく不安で、自分の身が障碍があることを怖れ、数日が過ぎた後、鶴岡八幡宮に参拝して、
「南無八幡、何卒憐れみを垂れ給い、災星を除かせ給え。」
と暫く祈念しました。
 参拝が終わると回廊に出て、欄干に辺に寄り掛かっていましたが、ふと向こうを見ると宮女風に被衣姿※注1の女たちが進んで参りました。遠くから見れば、彩雲が風に飛ぶかのようで、近くで見れば芳しい花が雨に微笑むかと見紛うばかりの美しさでございました。
 師直が目を凝らしてよくよく見ると、一人の奥方が多くの腰元を左右に従えて中央に囲まれ、手には一本の日扇を持ち、額に当てて日を遮り、軽い足取りで花が風に揺れるように歩いており、誠に風情があって人の心を動かすに足る装いでございました。

金の簪を斜めに挿して烏雲に映かし、翠の袖巧みに裁ちて瑞雪を籠む。桜桃にたとふる口は、浅く微紅を暈ひ、春笋にひとしき手は、半トン※注2玉を舒す。顔は三月の嬌花に似て、暗に風の情月の意を蔵し、眉は初春のトン※注2柳の如く、常に雨の恨雲の愁を含む。玉貌妖堯※注3として、芳容窈窕たり。若し月宮の嫦娥、下界に降るにあらずんば、定めて是貝闕の龍女、人間に遊ぶならん。※注4

 この方は誰あろう、塩冶侯の娘子※注5の貌好※注6夫人でございます。この時、貌好は真っ直ぐ進んで玉殿に上り、参拝を終わって侍女を連れて回廊に出ましたが、師直は元来好色漢でしたので、貌好が絶世の美女であるのを見て、魂は天に舞い上がり、ぼーっとなってスケベ心が興り、恥も人目もなんのその、貌好の袖を引き留め、ねっとりねとねと言うことには、
「わしは奥方とお話がしたいのじゃ。わしと一緒に別の所に参ろうぞ。たとえ鉄石の心であろうとも、多少の情けがないわけではござるまい。」
なんぞとほざきました。
 貌好は驚き怖れ、顔を赤く染めて、
「このような清浄平和な世界に、夫ある女を捕らえてお戯れなさいますとは、どのような道理でございましょう。」
と言いましたが、師直は夫人が塩冶侯の奥方だとは知らなかったので、なおも頻りにべたべたして、
「夫人はそれがしに焦がれ死にせよと申されるのか。」
と無理に引き留めようといたしました。
 貌好は師直の傍若無人の振る舞いを見て、心中大変怒り、罵り辱めてやろうかと思いましたが、よく見ればこの人の着物の袖に月輪の紋所があり、初めて足利家執事高師直であると悟り、
「この人は今執事の職を誇り、権勢をほしいままにして、ただただ人を傷つけると聞いている。もしこの人に辱めを与えれば、必ず恨みに思って夫高貞のために良くないだろう。昔の言葉に『官を怕れず、ただ管を怕る』※注7と言うこともあるから、暫くは怒りを我慢するに越したことはないだろう。」
と躊躇しつつ思い、急に怒りを静めて笑顔を作り、どうやってここから逃げ去ろうかと思いましたが、師直は貌好が微笑むのを見て、周囲の人も気に掛けず、益々戯れて遂に狼藉に及ぼうといたしました。
 腰元たちはこれを見て、手に汗握りましたが、どうしようもありませんでした。
 しかし、この腰元の中に票兒※注8と言う者がいて、歳は十八、九に過ぎませんが、非常に利発な娘でした。
 この時票兒は腹を据えて一計を案じ、師直を脇に呼んで嘘をつき、
「相公様、無駄なお悩みはお止めなされまし。ここは人目も多く、大ぴらにお話もできませぬ。殊に奥方様は塩冶侯の御正室でございますから、相公様も滅多なことをされてはお為になるまいかと存じます。私が良い折りを見て、密かに取り持ちをいたし、誓ってお志を遂げさせましょうほどに、今日のところは奥方様をお放しあって、家にお帰しくださいまし。」
と諫めました。師直は初めて塩冶侯の奥方であることを知り、急には事が成らないだろうと思って、仕方なく票兒の諫言を聞き、
「そなた、その約束を忘れるでないぞ。もし、偽りと判れば決して許さぬ。」
と言い、未練たらたら廟門の外で待ちわびている従者たちを連れて私宅に帰りました。
 このようにして貌好をはじめ腰元衆は、ほっと息を吐きました。
 誠に、かの『水滸伝』の林冲の妻が、五岳廟において高衙内のために苦しめられたのも、このようであったかと思われます。
 さて、師直はこの日から、貌好の事が忘れられず、想いが募った挙げ句、病気にかこつけて務めも放り出し、毎日ただ家にいて票兒の連絡を待ち侘び、その時に想いを馳せておりました。
 元々票兒が取り持つと言ったのは、ただその場を逃れる偽りの計略だったので、どうして連絡などありましょう。
 師直は半月ほども待っていましたが、何も連絡がなかったので大変悩み、仕方なく一通の恋文を書き、密かに貌好の元に贈って試してみようと思い付きました。
 さてさて、師直が家に帰り、何事を計画したか、まずは次回のお楽しみ。※注9




※注1:高貴な女性は、外出時に頭に衣裳をかざして歩きました。その衣裳&姿のことです。
※注2:漢字は”おんなへん”に”えらぶ”に”のぶん”(汗)こ、言葉では説明不能...簡単なのに(滝汗)意味はやわらかいとか。
※注3:本当の漢字は”おんなへん”に堯。
※注4:いちいち解説してるとキリがないんで一言で言っちゃうと”イイ女”だってことです(笑)
※注5:”おくがた”と読ませてますが、勿論中国風。林冲の奥さんとか、孫立の奥さんとかで使われてますね。
※注6:『仮名手本忠臣蔵』では顔世。つまり、”かほよ”と読みます。
※注7:出ました!『水滸伝』で役人がからんだ時の常套句です。”役人は恐かねぇけど、権威を嵩に着た報復は恐ぇ”ってことですな。
※注8:本当の漢字は”にんべん”に票。『仮名手本忠臣蔵』では”おかる”。どうしてこれで”おかる”と読めるんだ?物語後半では、重要人物として再登場します。
※注9:ここのところ、原文では「畢竟〜、且づ下回に分解くるを聴け」となっていて、典型的な章回小説のエンディングです。