第六回 韓平山崎に寓みて肉包を售る 千崎西岡を過りて野猪を殺す(その参)

 その話はそれまでとして、また一ヶ月あまり過ぎたある日、夜叉老婆と角兵衛の二人は、屠殺を行う空き小屋で密会し、頭を寄せてひそひそ話をしておりましたが、夜叉老婆が言うには、
「あたしがあんたとできてから随分経つし、想い想われの間柄、今更別れることなんかできやしない。近頃夫の与一兵衛は病に冒され寝起きも不自由、これこそ縁結びの神様のお助けってもんさ。この機会に密かに鴆毒であいつをばらしちまおう。そうすりゃ、いつか勘平がここに帰って来たところで、何の証拠も残りゃしないさ。諺にも、『初めに嫁する時は親に従う、再び嫁する時は身に寄る』ってね。例え、いつかあたしがあんたの嫁になっても、誰が四の五の言うもんかい。これが草を斬って根を除き、あんたと共白髪の妙計って奴だよ。」
 角兵衛は、
「そりゃ良い考えだ。急いでやっちまおう。」
と言うと、夜叉老婆は、
「でも、ちょっと問題があってね、元々毒薬ってのは簡単には手に入らないのさ。どうすれば良いかねぇ。」
 角兵衛は、
「幸い俺の呑み仲間に太田了竹って奴がいてな、奴が昔砒霜※注1を持ってるって話を聞いたことがあるのよ。よし、俺が明日貰って来てやるぜ。」
と言うと、何やらこそこそ打ち合わせ、この日は二人とも分かれて行きました。
 さて次の日、角兵衛は砒霜を取って来て、密かに夜叉老婆に渡しました。
 夜叉老婆はこれを懐に隠し、与一兵衛の枕辺を離れず、一日中看病していましたが、夕方になって、頃合い良しと砒霜を掌で細かく砕き、用意しておいた一服の薬に混ぜ、湯飲みに移して白湯を入れ、簪でかき混ぜて与一兵衛に与えました。
 与一兵衛は、いつもの粉薬だろうと何も考えずに一口飲んで言うには、
「この薬は前のと違う味で、やけに飲み難いな。」
 夜叉老婆は、
「薬の味がなんで違うのさ。病のせいで舌がおかしいんじゃないかい。時にはそう言うこともあるのよ。我慢して飲めば、だんだん良くなるだろうから、さっさとお飲みよ。」
とすすめました。
 与一兵衛はなるほどと思い、再び薬を飲むと、夜叉老婆は勢いに乗じて湯飲みの毒薬を全て与一兵衛の口に流し込んだので、与一兵衛は一滴も残さず飲み下し、大変苦しんで、
「おかしいぞ。この薬を飲むと五臓六腑が引き千切れるようだ。苦しい、我慢できない。」
と大声で叫んだので、夜叉老婆は慌てて布団を与一兵衛に被せました。
 与一兵衛は更に苦しんで、
「なんでお前はこんなにわしを苦しめるんだ。」
 夜叉老婆は、
「医者が言うには、布団を厚くして汗を出させれば、すぐに良くなるとのこと、もう少し頑張って。」
 与一兵衛は益々苦しんで叫ぼうとしましたが、夜叉老婆が与一兵衛の上に跨り、力任せに押さえたので、与一兵衛は二声叫んで遂に淫婦によって殺されました。
 憐れなるかなこの老人、不幸にしてこの悪女を娶り、惨いはかりごとによって非命に死ぬことと相成りました。
 古人が言うのも尤も、

黒蟒口中の舌 黄蜂尾上の針
兩般ながら猶ほ未だ毒ならず 最も毒なるは婦人の心

 夜叉老婆は与一兵衛が動かないのを確認して、布団を引き剥がして見ると、哀しいかな与一兵衛は目口鼻から血を流し、歯を食いしばって死んでおりました。
 流石の夜叉老婆もこれを見て驚き、慌てて合図の壁を叩くと、空き家の中に隠れていた角兵衛が走り出て夜叉老婆を助け、二人で屍を持ち上げて、顔面の血の痕を拭い取り、人の疑いを防ごうと上に新しい着物を覆いました。※注2
 斯くて次の日になり、近所の人を雇って葬式を営み、その屍を火葬にして裏山に葬り、遂に跡形もなくしてしましました。
 元々与一兵衛には一人の親類もなく、その上一軒の離れ家に住んでいたので、向こう三軒両隣もなく、一人として彼が非業の死を遂げたことを知る者もありませんでした。まさに、『飼い犬に手を噛まれた』とはこのことでございます。
 後生の人の書いた詩に曰く、

老婆の邪慝其の夫を鴆す 豈に料らんや一朝養廬※注3に囓まれんとは
誰か道ふ武松の阿嫂が悪 奸心相等しけれども辜を同じうせず

 この後は、二人は誰に憚ることもなく、益々安心して、毎日この家で好き放題に逢瀬を重ね、まるで漆の如く膠の如くでございました。
 諺にも、『人は騙せても天は騙せない』と申しますが、天の網閻魔の帳面がどうして悪人を逃しましょうや。この二人が巧く計ろうとも、遂には必ず報いがあるもので、どうして最後まで無事でいられましょうや。

 無駄話はさておいて、勘平は鎌倉にいて師直の様子を窺っていたとは言え、未だに本懐を遂げず、徒に数ヶ月を過ごしていましたが、大星由良が京都で密かに忠義の武人を集めていると聞いて、再び京都に赴き、良い手蔓を求めて大星に会って罪を詫び、計画に従って共に志を遂げようと意を決し、鎌倉を離れて旅に出ましたが、夜の夢見が悪く、なんとなく落ち着かなかったので、足に任せて道を急ぎ、ほどなく京都に到着、既に山崎の入り口まで来た所で、向かいの茂みに多くの鴉が群がってカアカアと鳴いておりました。
 勘平はこれを見て独り言を言い、
「不思議なことだ。わしは公冶長※注4ではないので、その鳴く声がどう言う理由かは知らないが、まるで良くない知らせを告げているようだ。怪しいことだな。」
と言う間も、しきりに胸騒ぎがしてならず、暫く立ち止まっているところへ、背後に人の気配がして「兄貴、兄貴※注5」と呼びました。
 勘平が振り向いて見ると、顔見知りの乾魚売りの伊吾でした。
 勘平が、
「お前、分かれてから何事もないか。」
と言うと、伊吾は、
「おいら密かに知らせたいことがあって、兄貴の帰りを待っていたんだ。ちょっとこっちに来ておくれよ。詳しく話すからさ。」
と、勘平を招いて人気のない所に行き、角兵衛と夜叉老婆の密通の事、イ票兒を騙して金を奪った事、与一兵衛を毒殺した事、そして自分が角兵衛に殴られて怪我をした事、最初から最後まで一部始終を詳しく話したので、勘平はこれを聞いて驚き且つ怒り、歯を食いしばって拳を握り、身を震わせて怒りに悶えましたが、暫くして伊吾に礼を言い、
「もし、お前の好意がなければ、わしもまた奴らの毒計に落ちただろう。わしは急いで舅の仇を報い、お前の恨みをも晴らす考えがある。必ずこの事を人に漏らすなよ。」
と口止めして伊吾と別れ、急いで与一兵衛の家に行き、まず垣根の隙間から中の様子を窺うと、夜叉老婆は一人で囲炉裏の辺に座って糸を紡いでおりました。
 勘平は覗き終わると中に入り、
「勘平が只今帰りました。」
と叫んだので、夜叉老婆は大いに狼狽えて走り出て、
「まぁ嬉しい、婿殿でしたか。あなたのお帰りを待ち侘びておりました。きっと長旅の疲れもございましょう。」
と、自ら鍋の湯を足桶に入れて足を洗わせ、茶を温めて飯を食わせなどして、何時になく世話を焼きました。




※注1:ヒ素ですな。今は亜ヒ酸とか言うらしいです。和歌山の事件で使われたアレです。
※注2:この辺りの展開、潘金蓮+王婆÷2ですな(汗)
※注3:本当の漢字は”けものへん”+廬。
※注4:孔子の弟子で、烏を始め鳥の言葉が分かったと言う伝説の持ち主ですな。
※注5:原文は「哥々」ですわ(笑)