[九十]上蔡京の第に幸して金芝を観る

 冬十月、徽宗は道徳宮に金芝が生えたので、行幸して見ることにして、ついでに蔡京の屋敷にも立ち寄りました。龍徳江から舟を浮かべて蔡京の屋敷である鳴鑾記堂に着きましたが、淑妃もこれに従いました。徽宗は、
「今年は四回程鳴鑾記堂に参ったな。」
と言い、蔡京に酒を賜いました。


[九十一]蔡京鳴鑾記を進む

 蔡京は「鳴鑾記」を作って徽宗に進呈しました。初め蔡京は徽宗に近侍して、君臣ともに悦ぶような話をして、やがて蔡絛※注1のために徽宗に公主の降嫁を願い、蔡攸は最も徽宗の恩寵を蒙りました。
 徽宗は時々お忍びで蔡京の屋敷に行幸し、宴席を命じて酒を賜い、家族に対する礼を用いました。蔡京の御礼の上奏文には、
「妻が陛下の健康を言祝いで杯を勧め、返杯を請うと喜んでお許しになり、幼児が陛下の御衣を引っ張って引き留めても拒むことをなさいませんでした。」
とあります。

[九十二]蔡京道君に勧め、太平を以って娯と為さしむ

 本文なし


[九十三]道君服を易へて都市へ私行す

 蔡京が常に徽宗に勧めて言うには、
「天子は四海を家とし、太平を楽しみとなさるべきです。歳月はあっと言う間です、なんで御自ら苦しまれる必要がありましょうか。」
とのことでした。徽宗はその言葉を受納し、微服に着替えて市中にお忍びで出掛けるようになりました。
 徽宗はお忍びの外出をするようになってから、御苑の趣を江浙に真似て、庶民風の家を作って装飾を施さず、田舎造りにして、珍しい鳥や動物を数千匹も集めました。都では、秋風の夜静かな時などは鳥や獣の鳴き声が四方に聞こえ、まるで山林や水辺に居るようでしたが、良識のある人はこれを不祥であると言っていました。
 蔡攸はお目通りに時を選ばず、媚びへつらって、自ら顔に青紅を塗って役者の真似事をして、市井のみだらでふざけた言葉を遣って徽宗の心を惑わし、妻の朱氏も禁中に出入りしました。
 この秋、蔡攸は自分の役所の開設を許され、子の蔡行は殿中監を拝受しました。蔡攸父子は徽宗の寵遇を得て、その勢力は朝廷在野に振るいました。


[九十四]李邦彦浪子宰相と為る

 当時、李邦彦は副宰相としてへつらっていましたが、宴会の度に自ら役者の真似事をして、市井の冗談を交えて笑わせ楽しませたので、人は李邦彦を『浪子宰相』と呼びました。
 ある日、李邦彦は宴会に出る際に生絹に龍の模様を描いて体に貼り、芸を行おうとした時に着物を脱いで裸となり、『入れ墨』を見せてなれなれしい言葉を言ったりしました。徽宗が杖を挙げてむち打とうとすると、李邦彦は木に登って逃げました。皇后は内宮からこれを見て、
「下りてきなさい。」
と諭しましたが、李邦彦は、
「鶯※注2が目を光らせて狙っているので、枝から下りられません。」
と答えました。皇后は溜息を吐いて、
「宰相がこのようでは、どうして天下を治めることができましょうか。」
と言いました。


[九十五]登粛※注3十詩を進めて朝政を譏切す

 十一月朱面は花石綱によって徽宗に媚び、東南で騒動が起きました。太学生登粛は十詩を奉って徽宗を諷諫しました。その最後の詩に曰く、

 霊體霊囿庶民を攻む
 楽意充周百姓同じ
 但願はくば君王百姓を安んぜよ
 圃中何れの日か春風ならざらん

 蔡京はこの詩を徽宗に献じ、徽宗を怒らせて登粛を殺そうとして言いました。
「太学生が詩文によって陛下を謗っているのに、これを殺さなければこれに倣う者が出て、流行りとなるでしょう。党錮の禍を先例としてお考えください。」
 徽宗はそれに答えずに、登粛を故郷に帰らせました。これは登粛の身を守ろうとしてのことでした。





※注1:「じょう」の本当の漢字は前出。
※注2:鶯は徽宗のことを指してますな。徽宗も本気で怒ってるようには見えませんね。
※注3:本当の漢字は”登”におおざと。