[二百八十二]汪黄高宗に勸めて敵を東南に避けしむ
高宗は詔を下して開封を修復させたとは言っても、還御する気持ちは未だにはっきりせず、車駕での行幸の向かう先も未定でした。
李綱は高宗を諫めて、
「今、御車がたとえ未だに関に入っていないとしても、とう※注1州襄州に行って中原を忘れていないと言う御意志をお示しされるべきです。近頃、一二の執政が陛下に勧めて東南に遷都させようとしていると聞きますが、もしそのようなことになれば、中原は我らの所有地ではなくなるでありましょう。」
と言いました。高宗は、
「ただ六宮を奉じて東南に往くだけである。朕は卿と中原に留まるのだ。」
と言いました。李綱は高宗を拝して慶びを述べ、高宗は前詔を下しました。
汪伯彦・黄潜善は落ち着き払って高宗に、
「上皇のお子さま三十人のうち、今いらっしゃるのは陛下お一人であられます。夷狄を避けるための計をほどこさなければなりません。万一、開封を防衛できなければ、宋国中興の大事は去ることとなります。陛下、熟慮をお試みください。」
と言いました。高宗はまた手書きの詔を下して、
「開封へはまだ行くべきではない。東南に行幸して、夷狄を避けるための計とすべきである。」
と言いました。李綱はこれを激しく諫め、東南に行幸すべきでないと力説し、トウ州襄州に留まることを請いました。そして、また詔を下してトウ州城を修復させることとなりました。
侍従官の劉カクもまた意見書を奉って直言し、
「現在の重要事は、事を図る機会を明らかにすることにあり、時を惜しむことが急務であります。南陽は中原に密接していて、四方の兵を呼び招き易く、また長江の天険があります。これらを以って、固守することができます。」
と言いました。士大夫の多くは、その意見に従いました。
[二百八十三]高宗淮に幸す、虜徐州を陥る
九月、金軍は黄河北域に侵入し、開封に迫るとの情報が入りました。そこで詔を下して、淮甸に行幸しました。これは汪伯彦・黄潜善の要請に従ったものでした。
建炎三年春正月、高宗は揚州に行幸しました。金軍は徐州を陥落させました。徐州を守備していた王復は金軍を罵って屈しませんでした。粘罕は韓世忠が淮陽を守っていると聞いて、兵一万を分かって揚州に赴かせ、自ら大軍を率いて韓世忠を迎撃しました。韓世忠はこれに対して衆寡敵せず、遂に淮陽は陥落しました。劉光世は軍を率いて敵を迎撃しましたが、未だ淮陽に到着する前に潰滅してしまいました。この時、朝廷が信任している汪伯彦・黄潜善には、初めから深慮遠謀はありませんでした。開封は御史に委ね、南京は留守に委ね、泗州は郡守に委ねて、報告は全てデマでした。
金軍はスパイを送り、宋の朝廷に戒めがないことを知り、偽って李成※注2の党類と称して宋軍に誼を通じました。張浚は仲間を率いて執政となり、
「金軍の勢いが猖獗を極めているのに、何故これに対する備えを行わないのか。」
と言いました。汪伯彦・黄潜善の二人は笑って答えませんでした。
その頃、天長軍※注3から金軍が到ったとの通報が入り、高宗は大変驚いて、甲冑を身に付け、馬に乗って南に向かいました。
汪伯彦・黄潜善の二人の宰相は中書省の政事堂で会食していましたが、金軍急迫の報告を聞いても、憂うるに足りないと答えました。政事堂の役人が、
「陛下は行幸されました。」
と呼ぶと、二人の宰相は驚愕して軍服に着替え、馬に鞭打って高宗を追い、兵士や民衆と争って門を出ました。このために死んだ者は数えられないほどでした。
大理寺の黄鍔が京口に到着した時、軍人は黄潜善であると勘違いしてこれを罵り、
「国家を誤り民を誤ったのは、皆お前の罪である。」
と言いました。黄鍔が自分は黄潜善ではないと弁解しようとした時には、既に首を落とされていました。
太常少卿の李陵が九廟の位牌を奉じて門を出る時、騎兵が道を塞いでいましたが、数里行って揚州城を振り向くと煙と炎が天に届くほどでした。後世の人の詩では、こう言っています。
門外の飛塵諜未だ歸らず
安危の大計兒嬉に類す
君王馬上船渡を呼ぶ
丞相堂前食して未だ知らず
この時、呂い※注4皓・張浚は馬を列ねて高宗を追い、瓜州で追いつきました。そして、小船を見つけて乗り、長江を渡りました。
[二百八十四]駕杭州に幸し、杭州を改めて臨安府と爲す
二月、杭州に到着し、州役所を行宮としました。
四月、高宗は建康府に行きました。この頃、張浚と呂い※注4皓は、高宗が武昌に行幸して、陜西に赴く計を建言しました。右諫議の滕康・中丞の張守は強く反対し、
「東南は今日の根本である。」
と言いました。張浚の建言した西に行く議題は遂に沙汰止みとなりました。
閏月、詔を下して行幸の地を議事としました。初め張浚が武昌の地を建言し、陜西・四川と供応しようと望んで、呂い※注4皓はこれを是としました。張浚が行ってどれほども経たないうち、江・浙諸州の士大夫が動揺したので、呂い※注4皓は遂に最初の建言を廃止しました。※注5概ね、岳州鄂州は道が遠く、糧秣輸送が困難であると言いました。また、一度行幸を行えば、江北の群盗が虚に乗じて長江を渡り、東南が宋の所有でなくなることを慮りました。
高宗は建康を離れて浙西に行幸し、詔を下して江州を改めて臨安府とし、先ず太祖以下の九廟の位牌を奉じて臨安に向かわせました。
[二百八十五]杜充叛いて金国に降る
七月、杜充に建康の留守を命じました。
十一月、金軍は釆石渡※注6を犯し、遂に馬家渡※注7に行き、長江を渡って建康を陥落させました。杜充・李説※注8は叛いて金軍に降伏しました。ただ、通判の楊邦乂は一人降伏せず、衣服の裾に自分の血で、
「寧ろ趙氏の鬼となっても他国の臣にはならない。」
と書きました。
[二百八十六]張浚明州に大捷す
十二月、高宗は明州から海に出ました。金軍は杭州を陥落させ、兀朮※注9は独松嶺を過ぎて、
「南朝は人がいない。もし、弱兵数百人で独松嶺を守れば、我らはこうも早くここを越えることはできなかったであろう。」
と言いました。
張浚は金軍と明州で戦って、大勝しました。
建炎三年正月※注10、兀朮は再び明州を犯し、張浚と数回戦いました。張浚は兀朮が新手の兵を増援することを恐れて、この夜逃げ去りました。金軍は明州を屠り、城内は惨憺たる禍を受けました。

※注1:漢字は登に”おおざと”。
※注2:”あの”李成のルーツかしらん?
※注3:揚州の西北約30キロにあります。
※注4:漢字は”臣によく似たもの”に頁(汗)
※注5:ここに「十五封を以って進入す。」って一文があるんだけど、意味不明だし、なんか繋がらないのでカットしました(汗)
※注6:建康から長江沿いに50キロ上流の地。
※注7:釆石渡より更に十数キロほど建康よりの地。
※注8:本当の漢字は”きへん”。
※注9:”うじゅ”と読みます。
※注10:[二百八十三]の記事が建炎三年だから、間違いかな?