<独善的私見>
書かないつもりでおったんじゃが、三周年と言うことで蔵出しすることにしましたぞ(汗)
あくまで醉蝗の独善的な水滸に対する思いを述べたものなんで、一般的でないことだけは確かじゃよ(笑)
まぁ、軽い読み物と思って、軽く読んでくだされ(笑)
『水滸伝』はリアリティのある小説だ。
リアリティとは、歴史小説として史実に忠実であるとか物語の中の出来事が現実的であるとか言うことでなく、小説としての描かれ方が現実の社会の在り様を映したようだ、との意味である。
にも関わらず、『水滸伝』は”夢”を描いた小説でもある。
一見相反するようであるが、『水滸伝』にはその二つが共存している。
一般に『水滸伝』の文学的な評価は高いようであるけれど、当然批判的な意見もあるもので、こんな意見を目にする時がある。
曰く、「人物描写にムラがある。」
曰く、「七十回以降がつまらない。」
だが、例えば『水滸伝』がそれらも満たすような小説であればもっと面白かったかと言えば、”否”だとしか思えない。
なぜならば、『水滸伝』の”味”はなんでもかんでもきっちり描かれていないところにあるからだ。
試みに考えてみると良いだろう。友人や家族、人生を誰かに語ったとして、果たして全ての人・事柄を均等に話せるか?
恐らくそんなことの出来る人はいないだろう。それが当たり前だ。誰にとっても、物事にはその人なりの重さ軽さがあるのだから。一時間話してもエピソードの尽きない奴もいれば、「いい奴だよ。」の一言で終わってしまう奴だっている。それが現実だ。人の世に個性の濃淡があるのは当たり前なのだ。
派手に登場して尻すぼみになる奴、脇役で登場したのに美味しいところを持っていく奴、ずっと地味な存在のままな奴、最初から最後まで主役級扱いの奴、『水滸伝』は好漢たちをそんな感じで描き分けているし、事件の取り上げ方も数回を費やすものからほんの数行で終わってしまうものまであるが、それこそ現実世界の投射なんじゃないか?
もし、全ての登場人物が主役になれるほどの存在感があるとすれば、きっとそれはおとぎ話か何かだろう。要するに誰にでもわかる幼稚な物語だ。
それに『水滸伝』には完璧な奴なんか登場しない。そりゃそうだ、世の中に完璧な奴なんていないんだから。
事件、出来事にしても然り。現実の世界では、全ての物事の辻褄がきっちり語られることはまずあり得ない。語られないものは、重要でないからだ。
そう考えると『水滸伝』世界は、人の目から見た現実社会にとても近い、リアリティのある世界として見えてくる。
ところで、『水滸伝』の主題は「様々な理由から無頼に身を落とした漢たちが、最後は国家に忠義を尽くす」ものだが、これは結論から言えば”夢”のお話だ。
「国家に忠義を尽くす」と言うのは、言葉を代えれば「青史に名を残す」ことだ。この「青史に名を残す」と言う奴は、「長者番付に名を載せる」なんてこととはレベルが違う。「未来永劫、その一族の名を歴史に残す」ことだ。
言ってみれば、犯罪者集団である梁山泊の面々が、「青史に名を残」そうと言うんだから大きな夢だろう。
思うに、漢ってものは夢見勝ちなものだ。誰だって、一度や二度は分不相応な夢を思い浮かべたことがあるだろう。「死ぬまでに何か一発デカイことやりたい」と思うのは、ある意味漢の本能なのかも知れない。
『水滸伝』では招安後の方臘戦で多くの好漢が死んでいく。が、悲しくはあっても決して悲劇だとは思わない。大きな夢を追いかけて、実現の過程で力尽きて死んで行くのだ。以って瞑すべし、だろう。
そして、最後に朝敵を全て滅ぼしても、四姦のために死に追いやられていく。それでも悲劇ではないのだ。
彼らは夢を実現したのだ。生きて残るのが彼らの望みではないし、ましてや彼らは天上の星の生まれ変わりだ。死ねば帰る所が別にあるのだ。何を思い煩う必要があろう。『水滸伝』と『三国志演義』の決定的な違いはそこにある。『水滸伝』の好漢たちは夢を実現したが、『三国志演義』の蜀陣営は”漢の存続”と言う夢が破れたのだ。だから『三国志演義』は悲劇なのだ。
もし仮に『水滸伝』の最後がハッピーエンドで、四姦を打倒なんかした日には”味”もへったくれもない。稚拙この上無しだ。同様の意味において、七十回本は『水滸伝』の一部でしかない。
”夢は実現したけれどもハッピーエンドでない”ところが、『水滸伝』の物語構成の素晴らしい所以だ。「人生は一場の夢」、それが『水滸伝』の本質なのだ。
そしてもう一つ、『水滸伝』の主要人物はほとんど社会の底辺の庶民たちだ。国家を動かす重鎮なんて言うのは脇役でしかない。『水滸伝』は、庶民が主役の、そして講談から生まれ庶民によって育てられた庶民の小説でもあるのだ。
だから『水滸伝』には教養も倫理道徳も思想もいらない。今も昔も『水滸伝』は純粋な大衆小説だ。面白さが全てなのだ。
寨主にとっての『水滸伝』とは、そう言う小説である。