<版本>
内容は水滸伝の各版本についてじゃが、ご多分に漏れずいい加減で学術的根拠なしじゃな。
さて、前にも少々書いたが、水滸伝の版本にはたくさん種類があるんじゃよ。そのうち、有名なのが次の三つじゃ。
何回本となっておるのは、皆各章が「第XX回」と回で分けられているからで、この為にこの形の本は、”章回小説”と呼ばれとるんじゃ。三国演義、西遊記、皆然りじゃな。
これは元々が講談から発生した名残なんじゃろうな。水滸伝の各回の終りは、必ず次ぎの回へ繋がる形で最後に登場する人が伏せてあったり、最後の科白が書かれていなかったりして、「いかなることにあいなりますか、それは次回の講釈にて。」みたいな終り方になっておるんじゃよ。昔、NHKでやっておった「里見八犬伝」とか「三国志」の人形劇もこんな感じじゃったろ?
で、その講談を読み物として小説にしたのが、今読んでいる水滸伝じゃ。
七十回本と言うのは金聖嘆と言う人がまとめたもんでの、百八人が梁山泊へ集結したところまでじゃ。じゃが、おまけがついておって、宴会の後盧俊義が、百八人全員が捕まって首を切られる夢を見て終わるんじゃよ。金聖嘆曰く、「盗賊が正義面して、官軍になるとはけしからん!」と言うことになっておるが、彼の生きておった時代が明末清初で清と同じ民族の遼を征伐する文章は、政情的に書けなかったと言う説もあるようじゃ。
次の百回本じゃが、作者ははっきり判らんのじゃよ。羅貫中とも施耐庵とも言われとるんじゃが、いずれにせよ小説として最も古い水滸伝だと言われておる。そう言う意味では、誰が書いたにせよ誉めてあげたいの、わしとしては。これがなければ、現在水滸伝を読めなかったかも知れないんじゃから。内容は百八人集結の後に朝廷に招安されて、遼征伐、方臘征伐を行って百八人が消滅していくお話じゃ。
最後の百二十回本は楊定見と言う人がまとめたものじゃが、これは遼征伐と方臘征伐の間に田虎征伐、王慶征伐と言う二つの賊徒平定のお話が入っておる。世間のご要望にお応えした訳じゃよ、楊定見さんは。昔、「宇宙戦艦ヤマト」がヒットした時、何度も何度も続編が出来たようなもんじゃな。
わしが思うにどれも水滸伝なんで、優劣は付けがたいな。書誌学とか、文学的には優劣を付けるのは意味のあることなんじゃろうが、一般読者のわしには全部違いがあって面白い。多分、どの版本を書いた人も水滸伝が好きだったのは間違いないからの。ただ、もっと読者は読みたいだろう、もっと好漢を活躍させたい、と言うような愛情が感じられるから、敢えて言うなら百二十回本かの。
いかにも庶民の娯楽的で、あぁ皆水滸伝好きだったんじゃなぁと、思わずうれしくなるんじゃよ、わしは。
そう言う意味では忘れてならないのが、「水滸後伝」じゃな。
陳忱と言う人が書いたものじゃが、百回本を元に李俊がシャム国王に、他の生き残った好漢や好漢の子供たち、百八人以外に登場した好漢然とした漢たちがシャム国の高官になって、大団円を迎えると言う内容じゃ。
所謂続編じゃが、単独で読んでも面白いし、水滸伝好きにはその発想がたまらなくうれしい本じゃよ。わしはこの本の抄訳が新刊で出たとき、新聞で見つけて本屋に直行、一日で読んでしもうたな。
なんだかおのろけ話みたいになってしもうたようじゃ。まぁ、許してくだされ(笑)