法之巻
神機軍師朱武であります。さて、ちょっと『孫子』が続きましたんで、趣を変えて『三十六計』なんて言うのは如何でしょうかな?
三十六計は題名通り、三十六通りの計略によって成り立っていますので、十二計ずつ三回に分けて講義いたしましょう。今回は最終回です。
第二十五計 偸梁換柱(とうりょうかんちゅう)
梁や柱を取り替える、つまり敵の肝心な部分を自分の都合の良いように差し替えて、自滅を待ってその機に乗じる策です。
この策は敵勢力及び同盟勢力に対して、自分の意図通りに制御して最終的に乗っ取ってしまうことを目的とした策ですね。そのためには、相手勢力内でも上層部を狙うのが効率的だと言えますね。上層部が思い通りに動かせれば、もう自分のものも同然、いつ乗り込んで行っても反撃する気力も残っていないでしょう。
晁蓋大哥が亡くなって寨主が公明大哥となった時、公明大哥は聚義庁を忠義堂と改めました。何て事ないような事ですが、ある意味では公明大哥が招安に対する意志を明確に表明した瞬間であるとも言えるでしょう。
それまでの晁蓋大哥を柱とした反政府的な集団から、宋江大哥が理想とする国家皇帝に対する忠義を旨とした集団への移行は、実にここから始まったと言えましょう。
これなどもある意味『偸梁換柱の計』と言ってもいいのかも知れませんね。
第二十六計 指桑罵槐(しそうばかい)
弱者を支配するために、間接的な圧力をかけて従わせる策ですが、これはどっちかと言うと軍事的な策と言うより政治的な策と言えますな。
何事も、直接的に非難や警告をされると反感を持たれやすいものですが、これを当事者に分かるように第三者もしくは別の事例を取って非難叱責を加えることで統率しようと言うものです。「桑を指して槐を罵る」、実際に罵られているのは桑ですが、本当に罵りたいのは槐だと言うことなんですね。
野猪林で林教頭を殺そうとした董超薛覇でしたが、花和尚が救いに入って林教頭は事なきを得ました。この時点で既に花和尚に頭が上がらなくなった二人でしたが、滄州を目前にして花和尚がだめ押しをしました。「お前等の頭とこの松の木はどっちが固い?」「そりゃ、松の木で...」花和尚は禅杖で松の木をへし折りました。ここまで見せつけられれば、如何に小悪党でもそうそうは林教頭に手出しできませんな。
第二十七計 仮痴不癲(かちふてん)
馬鹿の振りをして、敵の警戒心を緩めよ、利口ぶって敵の警戒心を刺激してはならないと言うことです。”鳥の鳴かずば撃たれまい”ってところでしょうか。まぁ、過去の歴史においても現代社会においても、有能な人と言うのは、有能故に周り、特に上つ方から頼られもするし警戒されもするもんです。通常で考えれば、”取って代わる”のは有能な奴と相場が決まっていますから、その可能性が見えた途端に優遇されてたのが粛正対象にされたりするんですな。であるならば、”愚を装う”ことで未然に自らの身を守るに如くはなしと言うことでしょうね。
江州に流された宋江大哥は戴院長らと面識を得て、配流とは言え自由な暮らしをしていました。が、調子に乗った宋江大哥、潯陽楼で酔っぱらって書いた叛詩を黄文炳に見つけられ、蔡九知府に逮捕命令を出されます。戴院長は窮余の策で宋江大哥に馬鹿の振りを奨めます。言われる通り、糞尿の中を転げ回って玉皇太帝の婿だと怒鳴り散らしましたが、黄文炳に見破られ白状してしまいました。
まぁ、これは失敗の例ではありますが、極端な『仮痴不癲の計』ではありましたな。もうちょっと実際的な形としては、知っていたり気付いていたりしても、さりげなく素知らぬ振りをして相手を油断させるって所ですから、張横張順兄弟が官軍の関勝哥々の陣を夜襲した時、さりげなく兵書を読んでいる姿を見せたのもこの計と言えましょうか。
第二十八計 上屋抽梯(じょうおくちゅうてい)
利益をちらつかせて敵を盲進させ、後続部隊を絶って死地に突き落とせと言う策略です。大局的に見た場合、長大な兵站線を維持している状態は危険な状態だと言えます。兵站線を遮断されれば補給が不可能となるわけですから、前線にいる部隊は退却を余儀なくされる可能性大です。局地的に言えば、一戦場内で部隊が伸びた状態は分断して各個撃破の絶好の機会ですから、これまた危険極まりないと言えましょう。この計は、こちらから仕掛けて敵をそう言う状態に置くための計略ですな。
青州で宋江大哥花栄哥々が清風山上った後、慕容知府は秦統制を向かわせました。秦統制の性格を知り尽くした花栄哥々は、ちょこちょこ小策を用いて秦統制をおちょくりました。何しろあの短気な性格ですから、そこまでされると秦統制も見境ありません。ただ一騎で山の小道を駈け登りましたが、落とし穴に落とされて敢え無く捕まりました。
この場合、秦統制を盲進させたのは利益ではありませんが、要は何らかの策を用いて敵を猪突させればいいわけです。ですから、短気な敵には効果的な策と言えましょう。
第二十九計 樹上開花(じゅじょうかいか)
味方の兵力が小さい時は、大兵力に見せ掛けて敵を欺け、と言う計です。これは説明いらないでしょう。喧嘩でもなんでも、取り敢えず強そうに見せるなんてのは言わば当たり前。ザリガニだって、ハサミ上げて威嚇するでしょ?戦争の場合に兵力を過大に見せるのは、敵を威圧することと牽制することの意味がありますが、ここでは後者の意図で言ってますね。そのためには、敵に実体を把握されない配慮が必要なのは、言うまでもありませんな。
方臘戦の最中のイク嶺関でのこと。史進哥々ら六名の兄弟衆を失った盧先鋒に、私は正面攻撃と後方撹乱を同時に起こすことを献策しました。後方撹乱に当ったのは時遷哥々ただ一人。正面攻撃部隊に関門に迫る頃に合わせて、焼き討ちと砲撃を指示いたしました。林教頭らが将に攻撃を掛けるその時、関所内に火を放ち、火砲をぶっ放した時遷哥々は、既に官軍一万が関所を突破したと叫びました。上がる火の手と火砲の音に加えて、官軍一万が関所を突破したとのガセ情報は敵を混乱に陥れ、イク嶺関は落ちました。
第三十計 反客為主(はんかくいしゅ)
隙に乗じて自分が居座って、主権者から権力をもぎ取る計略です。所謂、乗っ取りですな。同一勢力内での権力奪取でも、国際関係上の同盟国及び敵性国の領土奪取においても歴史上数限りなく見られる策略だと言えましょう。
祝家荘に援軍と偽って入り込んだ孫立哥々たち八名は、石秀哥々を捕らえるなどして信用させ、欒廷玉祝兄弟らが出撃した隙を見計らって屋敷を制圧しました。
これは典型的な『反客為主の計』ですね。
第三十一計 美人計(びじんけい)
字義的には敵将を籠絡する策ですが、解説には「敵兵が強ければ敵将を策にはめ、敵将が智将であればその情を攻める。将も兵もダレてしまえば敵の勢いは勝手に弱まるから、利益で敵を操り、味方の勢力を保て。」とされています。
有名な所では、春秋時代の呉越の争覇戦の時、呉王夫差に破れて雪辱に燃える越王句践が、夫差を堕落させるために西施を贈ったのはこの策ですな。
綺麗なオネーチャンを贈られれば、気分が良くなって贈ってくれた奴に対する警戒を解くし、それに溺れて政治軍事が疎かになるのを狙ったんですな。そりゃあ、男相手に政治や軍事に励むより、オネーチャン相手の方が楽しいですからね。
招安を望んだ宋江大哥が何度か李師師に近付いたのは、寵姫である李師師から梁山泊一党の忠義を徽宗皇帝に伝える意図がありました。これなどは西施の場合とは違いますが、美人計と言えるでしょう。
第三十二計 空城計(くうじょうけい)
味方が小兵力で守備が手薄な場合は、敢えて手薄な様子を敵に見せ、敵に疑惑を生じさせて敵に攻撃を躊躇させると言うものです。
諸葛孔明が有名ですけど、倭国でも三方ヶ原の敗戦の後、徳川家康がこの手で武田勢の追撃を辛くも逃れていますな。
しかしこの計、どちらかと言うと手品に近い策で、危険この上ありません。敵将が猪突猛進型だった場合は、恐らく意味を為さないでしょうな。ですから、切羽詰まったどん詰まりの、最後の手段と考えた方が無難です。孫子が言うところの、「これを亡地に投じて然る後に存し、これを死地に陥れて然る後に生く」に相当する策と言えるでしょう。
王慶戦において、宛州城を奪還した泊軍は陳安撫らと花栄哥々・林教頭・蕭譲哥々他七名の兄弟衆に五万の兵を守備に残して山南へと向かいました。ところが、敵はその隙をついて宛州へ攻め寄せました。一方の敵に花栄哥々・林教頭と兵二万、もう一方に呂方哥々・郭盛哥々と兵二万を向かわせたところで、新手の敵が宛州城下へ攻め寄せました。残った城内の兵は弱兵が多く、敵に当たり難いと思われた時、蕭譲哥々が城門を開け放ち、西門上で陳安撫らと酒宴をして敵に見せつけました。官軍に策ありと疑った王慶軍は退却しようとしましたが、その時を外さず反撃に出た宣贊哥々・カク思文哥々らは敵を総崩れに追い込みました。
流石に蕭譲哥々、ただの能書家ではありませんな。
第三十三計 反間計(はんかんけい)
敵の疑心暗鬼を掻き立てろ、中でも敵の間者を逆用を効果的に使えと言う計です。
後方撹乱や離間策のために間者を送り込む場合、あまりに露骨に動くと敵に察知される可能性が大きいですな。急激な状況変化は敵の警戒心を煽るからです。しかし、敵が送り込んできた間者を逆用する場合、意図的に偽情報を掴ませたり、間者を買収して味方に引き込んだりできれば、敵は自らが放った間者の情報故に信憑性が高いと判断することになります。これが可能であれば、成功率は高いし経費も安く済みますから、有効に活用しろと言っているのです。
晁蓋大哥の仇討ちのため再度討伐に向かった曾頭市で、曽塗・曽索を失った曽弄は和議を申し込んできました。呉軍師は互いに人質交換を条件に一旦和議を受け入れましたが、曾頭市の人質として来ていた郁保四哥々を説得して、策を授けて帰らせました。策とも知らず、郁保四哥々の情報を信用して夜襲をかけた史文恭らは、泊軍の罠に落ちて、遂に曾頭市は潰滅いたしました。
第三十四計 苦肉計(くにくけい)
自分が害を受けていることを見せれば敵は信用するから、間者としての成功率は高くなると言うことです。ですから、実際にこの計自体が敵に損害を与え味方を有利にするわけではなくて、この計によって間者としての潜入してからが本番と言うことになりますね。ただ、現実問題としては非常に有効な策であることは間違いなく、史上でもこの手でまんまと間者を信用して破れていった者たちが多数いますな。
ちょっとした応用例ではありますが、花和尚と楊制司の二竜山乗っ取りはこの計と言えましょう。これは曹正哥々の策ですが、守りの厳しい二竜山に入るため、花和尚を捕らえたと偽って縄で縛り上げて連れていきました。花和尚が縛られた姿を見た手下どもは安心して、花和尚たちをトウ竜の前に引き出しました。ところがこの縄は簡単に解けるようになっていたので、哀れトウ竜は花和尚の禅杖で打ち殺されたのですな。
第三十五計 連環計(れんかんけい)
連環計と言う場合、いくつもの策を連続して施し、敵の動きを牽制して、敵勢力を消耗させ、最後にトドメを刺すような計略を言いますな。解説では敵の行動力を掣肘しておいてから攻撃するとしています。
三国志演義では赤壁の戦いを前にしてホウ統が曹操に舟同士を鎖で繋ぐことを献策します。魏は北方の勢力なので、舟が苦手で病兵が続出していたので、鎖で繋いだことで揺れが治まり、問題が解決したかに見えました。ところが豈に図らんや、これは火攻めを行う時に、舟が散らばらずに焼き討ちしやすいことを狙った策でした。
三打目の祝家荘戦においての次々繰り出された呉軍師の計略の数々は、将に連環計と言えます。まず、扈三娘を返してもらいにきた扈成に対して、祝家荘に援兵を送らず逃れてきた者を掴まえるよう約束させ(遠交近攻・借屍還魂・借刀殺人)、孫立哥々たちを登州兵馬提轄として祝家荘に潜り込ませ(笑裏蔵刀)、信用させるために孫立哥々にわざと石秀哥々を捕らえさせ(瞞天過海)、欒廷玉・祝兄弟が討って出たところで裏切って屋敷を占拠し(反客為主)、解珍解宝兄弟は秣場に火をかけて討って出た欒廷玉・祝兄弟を動揺させ(混水摸魚)、あっと言う間に祝家荘を落としました。
典型的且つ見事な連環計ですな。
第三十六計 走為上(そういじょう)
『三十六計逃げるに如かず』と言われる所以ですが、結構重要だったりするんですな。得てして強気な発想と言うのは勇気があると思われ勝ちだけど、冷静に考えると所謂「匹夫の勇」ってことが多かったりします。そう言う意見が大勢を占める中で、敢えて『退くべきだ!』と唱えるのは却って勇気がいるもんです。卑怯者呼ばわりされたりもしますしね。だけど、大局を見据えて撃つ時は撃ち、退く時は退くのが真の名将と言うものでしょうな。要するにピンチの時に臆病風に吹かれて逃げるのでなく、戦略的撤退策を採って勢力の温存を図れと言うのがこの計です。
生辰綱強奪の主犯であることが発覚した晁蓋大哥は、宋江大哥から追っ手迫るの報を受けると呉軍師と今後の対策を相談しました。呉軍師はすかさず言いました。『三十六計、走為上計。』そして梁山泊を目指しましたが、これがただ恐くて逃げたわけではないのは明白ですな。何濤が石碣村まで追ってきた時、湖で連中を全滅させたのは晁蓋大哥たちだったんですから。