雷之巻
今回は久々の特別講習故、神機軍師朱武自らお話いたしましょう。
これは上級編に近いものなので、以前の講義を確認してからの方がいいかもしれませんな。
ちなみに呉用殿が実際に言ったこと、やったことには基づいておりません。あくまでそれがしの兵法理論に基づいた検証ですので、ご内密に(爆)
第三次梁山泊征伐概略
さて、まず最初に検証を行う第三次梁山泊征伐の概略からお話しましょうか。
この戦いは、我らの盧俊義殿救出作戦が引き金となっておるのはご存じかな?李固の密告で、北京の牢に囚われた盧俊義殿を救出すべく、公明哥々および泊軍主力部隊が北京に向かいました。
北京の梁中書は、大刀聞達・李天王李成を司令官とした部隊を城外に出して泊軍に対抗させ、北京の保全と開封への道を確保しようと考えたようですな。更に索超殿の一軍を先行させ、泊軍に野戦を仕掛けさせ出鼻を挫こうとしましたが失敗、結局北京城下まで付け込まれる結果となりました。
北京の梁中書は、泊軍が迫るに及んで、開封の舅蔡京に救援を依頼し、朝廷では河北の確保と泊軍討伐のため、関勝殿を主将に征討軍を編成しました。
城下まで攻め込んだものの、中々北京を落とせない泊軍の様子を鑑みて、関勝殿は「囲魏救趙の計」を思い付き、北京に向かわず梁山泊へと進軍、そこで泊軍と数戦の後、軍師の策成って関勝殿を筆頭に宣贊殿・赫思文殿が仲間入りすることとなったのですな。
北京攻防の基本戦略
概略が分かったところで、北京での両軍の戦略について、検証してみましょうか。
まず、両軍の戦略目的は以下のようになりますな。
泊 軍:主たる目的は盧俊義殿の救出、あわよくば北京の物資の奪取
北京軍:北京の確保・保全
次ぎに、各軍の状況は以下の通りです。
泊 軍:遠征軍主力およそ一万、梁山泊には留守部隊のみ
北京軍:当初は野戦部隊一万五千と守城部隊で、想定二万以上
野戦敗退後は、被害を受けたとは言え、野戦部隊の敗残兵と守城部隊合わせて一万以上
上記を踏まえて考えますと、こう言えます。
泊軍ですが、主たる作戦地域である梁山泊から長途遠征していますから、速戦即決の短期決戦が上策ですな。それには、折角城外に出てきた北京軍を籠城させてはなりません。少なくとも両軍の総数比率において半数以下にはしないと難しいでしょう。元来城攻めには籠城軍に対して十倍の兵力が必要とされていますから、それでも厳しいくらいです。この場合、主将クラスの聞達・李成・索超などを虜にできれば、兵力差が小さくても籠城軍の戦意は極端に低下しますから、それらの状況を元に盧俊義殿の解放と泊軍の撤兵を交換条件とすれば、戦略目的を達成することは可能かと思われます。
更に言うと、北京遠征時にどれほどの糧秣を持って行ったか不明ですが、長期戦を運営するほどではないと思われます。兵糧が底を突いた時、泊軍は梁山泊からの補給か現地調達することになりますが、梁山泊からの補給は長い兵站線を官軍に絶たれる恐れが多大にあり、現地調達は梁山泊の旗印に叛くことになりますから事実上不可能です。
その上、この時点では関勝軍の出征の報は届いていませんでしたが、いずれどこかの官軍に退路を断たれるか、挟撃される危険性は誰にでも分かります。本拠地の梁山泊にも留守部隊しか残っていませんから、泊軍に対しての救援軍は皆無です。そうなれば滅びるしかありません。
つまり、どう考えても北京の城攻めは下策以外の何者でもないと言うことになりますな。泊軍としては、北京を取っても拠点として確保する意図はありませんし、糧秣確保のためだけに北京ほどの大城市を寡兵で攻めるのは、無謀と言うより無茶ですね。
泊軍の取るべき最善の選択肢は、城外に出た北京主力を策を以って速戦で完膚無きまでに叩き、敵主将を捕らえた上で自軍の損傷を押さえ、籠城軍を恐喝して盧俊義殿を確保したら即時撤退することだと考えます。
これに対して、北京軍の取り得る策は基本的に一つです。
最初から籠城してしまうこと、これは消極策のようですが、泊軍に北京を攻め落とせるだけの戦力がないことが明かですので、いずれ撤兵する折りを狙っての追撃を主戦術とした、理論に敵った選択肢です。『佚を以って労を待つ』ですね。北京軍の場合は泊軍と全く逆で、援軍が来ないことはありえませんから、主将の戦略眼さえあれば、挟撃のチャンスは無数にあります。
北京軍が行った城外で一戦する策も、泊軍の戦力を削ぐ策の一環としては意味を持ちます。北京城外の砦にいかほどかの兵力が籠もっていれば、進軍する泊軍も牽制されますから、そちらに向けて兵力を割くか、そこを取ってから北京に進むのが常道です。泊軍が牽制部隊を置けば良し、もし取りに来てもそれこそ主導権は北京軍にありますから、策を施す絶好のチャンスです。目的を達した後に城に戻っても、泊軍の戦意は確実に下がっている筈ですから、+αの効果としては十分です。敵を精神的不安定な状態に置くのは、奇兵を用いる前提ですから、その後の策を打つためには有効な手段だと言えます。
しかし、実際に北京軍が城外に出た時は主力を投入しての正兵で策があったわけではありませんから、戦術としては無策、リスクが大きいだけでメリットはありません。
関勝軍の戦略
ここまでの状況で第三次梁山泊征伐の前哨戦の戦略的状況はご理解いただけたかと思います。北京攻略戦の緒戦では戦術的に泊軍有利、北京籠城戦に移行して戦略的に北京軍有利の状況で推移していますが、この時点では戦線が膠着していますからここで泊軍が撤退すれば、戦略的に北京軍の勝ちとなります。北京軍としては、追撃戦の仕掛け方によっては、それまでの戦術的な負け分を取り戻すことも不可能ではありません。
そしてここに登場するのが、この戦局を左右する開封からの関勝軍です。関勝軍の戦略目的及び状況は以下の通り。
戦略目的:北京及び河北の維持、泊軍の撃滅
状 況:手付かずの精鋭一万五千
関勝軍は全くの新手で、河北山東から徴集した精鋭ですから、戦場の地の利は心得ていると仮定しても良いでしょう。また、朝廷から遣わされた征討軍ですから、戦場周辺の各城市から物資の補給を受けることも可能です。更に主将関勝殿は、義勇武安王関羽雲長の子孫ですから、無名であるとは言え、士卒の寄せる期待も大きかったと想像されます。つまり、志気の点でも申し分のない部隊であった可能性が大なわけです。
この部隊の取り得る策は二つです。
一つは直接北京に向かい、籠城軍と呼応して泊軍を挟撃する策ですね。攻城軍から見れば、北京に対する援軍が派遣されるであろうことは予測の範疇ですから、定石と言えます。援軍来るの報を受けた籠城軍の志気は当然上がりますから、籠城軍と征討軍の連携が密であるか、両軍の主将がお互いを優秀であると分かっていれば戦力的にも2〜3倍となるし、攻城軍に対して優位に戦局を進めることも可能です。
しかし、この時点で関勝殿は無名でしたし、北京軍の聞達・李成などを知っていたかどうかも分かりません。更に元々一軍を分かった部隊ではありませんから、連携戦術の可否は微妙なところだと言わざるを得ません。
攻城軍の首脳陣が優秀であれば、北京との戦線は膠着していますから、援軍到来を予想して早期に遠方まで斥候・諜報員を派遣して敵よりも早く情報を入手できれば、無駄な攻城戦に兵力を使わずに温存し、征討軍の進路に策を設けて撃退するか、一早く撤退してしまうことも可能です。この場合、『佚を以って労を待つ』のは攻城軍で、戦略上の主導権は攻城軍が握っていることになります。
これらのことから考えれば、こちらの策は敵が無能で籠城軍が戦術的に優秀な指揮官である場合の効果は大きいかも知れませんが、一般には正攻法に過ぎて、敵に策を弄する余裕を与えかねず、戦場到着以前に敵に撤兵されれば、無意味な派兵となる可能性が大きいと言えます。下策とは言えませんが、リスクが大きい戦略と言えます。
これに対して関勝殿の取ったのがもう一つの策、泊軍の本拠地である梁山泊の急襲策で、所謂『囲魏救趙の計』です。
この場合、梁山泊の留守部隊は主力ではありませんから、征討軍の進軍に対して積極的に作戦行動を起こす可能性は低く、征討軍の戦場設定はほぼ意のままとなりますので、主導権は征討軍にあることになります。
また、北京を囲んでいる遠征軍は退路を断たれることと本拠地を失う可能性から、囲みを解いて急遽撤兵することも確実で、しかも意表を突かれているので軍全体の精神状態は不安定であると言えます。
攻城軍の撤退は、籠城軍から見ると戦況が好転したと判断できますから、基本的に主導権は籠城軍に移っています。この際、遠征軍が戦略的に撤退する場合は、追撃されることを当然考慮していると考えなければなりません。直線的な追撃は、逆に撤退する遠征軍の策に掛かる可能性が大きいわけです。聞達・李成が呉用殿の手配した花栄殿・林冲殿・呼延灼殿の伏兵に叩かれたのは、短慮にもこの過ちを犯したことになります。
しかし、開封からも指示があったように、梁山泊征討軍と連携して追撃を行うことは戦略的に間違いではありません。聞達・李成は戦術的な過ちを犯したに過ぎません。
いずれにしても、この時点で征討軍は、最初の戦略目的である北京及び河北の維持を達成できたことになります。
征討軍は先に戦場に到達して有利な状況で敵を待っている状態で、しかも敵は慌てて戦場に向かっていると言うのは将に典型的な『佚を以って労を待つ』の状態ですから、奇兵を用いるのには絶好のシチュエーションだと言えます。
ここからが第二の目的である、『泊軍の撃滅』に主眼が置かれるわけですが、関勝殿はこの有利な状況で、撤退してくる泊軍主力に奇兵を用いることをしませんでした。
これは『仏作って魂入れず』で、折角の優位を我から捨てることになります。泊軍主力が無傷で戦場に到着すれば、征討軍は梁山泊の留守部隊と前後に敵を迎えることになり、しかも戦力はほぼ均衡ですから、状況的に泊軍有利となって主導権は泊軍に移ってしまいます。こうなっては、それまでの戦略が一切無駄になってしまいますから、下の下策と言ってもいいでしょう。しかも、敵将との一騎打ちに主将である関勝殿自らが出るようでは、戦術としても最低です。
これらのことから考えると、征討軍の最善の選択肢は泊軍主力の撤退路で策を設けて撃破、その上で戦力的優位を以って梁山泊攻略を行うことでしょう。もし、撤退路での作戦を行わなかったとしても、戦場に到達してすぐのところを急襲して、遠路撤退して疲弊した泊軍主力を討つべきです。少なくとも、陣を構えさせて休息などさせてはいけないところです。
なぜ、『囲魏救趙の計』を立案実行したほどの戦略眼のある関勝殿が、最後の詰めでこのような劣悪な行動を取ったのかは本人に聞いてみるしかありませんが、逆に言えばそうであったからこそ今があるとも言えましょう。
もし、今検証したような展開で事態が進行していれば、梁山泊が崩壊したかも知れない重要な戦いが、第三次梁山泊征討軍との攻防であったとお分かりいただけたでしょうか?
では、これにて本日のお話は終りと致します。