天之巻
神機軍師朱武の特別講習第二弾であります。今回の内容は、呼延灼殿が梁山泊を攻めた第二次梁山泊征伐についての考察になりますな。
今回もちょっと長いし上級編かも知れませんが、暫くお付き合いを願います。まぁ、ちょっと形を変えた頭の体操だと思っていただければ、よろしいかと...(笑)
第二次梁山泊征伐概要
前回同様、まずは概要から。
この戦いに先立って、泊軍は捕らえられた柴進殿を救うため、高唐州を攻めました。高廉の妖術に苦戦はしたものの、公孫勝殿の道術を以って高廉を破り、無事柴進殿を救出することができました。
高廉は高キュウの従兄弟でしたので、これを殺された高キュウは激怒して、直ぐさま梁山泊攻めを徽宗皇帝に上奏いたしました。
その場で裁可された高キュウは征討軍の将として、汝寧郡の都統制であった呼延灼殿を推挙いたしました。呼延灼殿は宋朝建国時の名将呼延賛の嫡流で、先鋒として陳州団練使であった韓滔殿と潁州団練使であった彭キ殿を請い受けました。そして、官庫から甲兵を受領し、万全の装備で梁山泊へ向かったのであります。
緒戦では泊軍は彭キ殿を捕らえたものの呼延灼殿の連環馬軍に大敗し、増援の凌振殿の砲撃であわや山寨もこれまでかと思われましたが、水軍統領たちの活躍で凌振殿を捕らえ、膠着状態状態となりました。
ここで連環馬軍撃破の策として、鈎鎌鎗の使い手徐寧殿を山寨の仲間に引き入れ、鈎鎌鎗部隊が組織訓練されました。
そうとは知らぬ呼延灼殿、再度連環馬軍を前線に充て、大敗した上韓滔殿も捕虜とされて、単騎青州へと落ちたのです。
当然のことながら、韓滔殿・彭キ殿・凌振殿は山寨の統領の席に座ることとなりました。
これが第二次梁山泊征伐の概要であります。
両軍の状況
まず、泊軍の状況ですが、この直前の高唐州攻めの際に投入した兵数が歩騎八千、うち二度の敗戦で二千名程度の兵数を失ったと想定すると残兵数六千前後となります。高唐州戦は出征戦ですので、本拠地確保のために兵数を割かないことは考えにくいので、全兵力の三分の一程度を守備に残したと考えると高唐州戦後の泊軍の総兵力は一万程度と仮定できます。
呼延灼殿の第一次梁山泊征討戦は高唐州戦直後であり、これを意識した兵の補充は募兵自体が時間的に難しいし、よしんば募兵できたとしても兵としての訓練期間は取れませんから実質的に不可能です。
今回は防衛戦ですから、出撃と守備に振り分ける兵数比率は、出征戦に比べて出撃を大きくできると考えて八千としておきましょう。
さて、次に官軍ですが、呼延灼殿の申されるには三路の合計動員力は歩騎合わせて一万、高キュウはそのうち騎兵三千、歩兵五千の動員を命じました。
呼延灼殿は、装備が貧弱ことを訴え、鉄甲三千・馬甲三千・銅鉄兜三千・長鎗二千・袞刀一千・弓矢無数・火砲五百を受領し、更に軍馬三千を与えられています。甲兵の類は重装騎兵の装備と思われます。つまり、全く互角の兵力とは言え、官軍は装備的に格段に優れていたと言うことです。
基本戦略
第二次梁山泊征伐での両軍の戦略目的は以下の通りです。
泊 軍:梁山泊の保全
官 軍:梁山泊勢力の鎮圧・解体
泊軍は、根拠地たる梁山泊及び梁山泊組織を維持すればいいわけですから、戦略的には官軍を撃退すれば勝ちです。別に官軍を全滅させる必要はありません。この場合、梁山泊での籠城は外部からの救援があり得ないこと及び官軍の兵站はほぼ完全であることから絶対に採ってはなりません。実際の戦況のように一時的な泊内への退避は別にして、基本的には攻勢を採り、野戦もしくは水戦で官軍に打撃を与えて撃退することが基本戦略になります。
官軍は梁山泊勢力の鎮圧が目的なので、一時的な局面での勝利は戦略的に勝ちとは言えません。全滅させないまでも、梁山泊を落として主要な頭領を討ち取るか捕虜とし、梁山泊と言う組織そのものを潰滅させなければなりません。万全の状態の梁山泊を攻めるのは攻城戦と同じですから、泊軍を外に引っぱり出して打撃を与え、可能な限り戦力を削いだ上で宛子城を攻略を行うのが基本的な戦略となります。
つまり、両軍ともに野戦を望んでいたわけですな、この戦いは。
軍争
次に軍争についてですが、泊軍は官軍至るの報を柴進救出祝いの宴会中に受けてから策戦を練り陣立てを決めています。
第一陣の秦明が出撃して梁山泊近郊に布陣してから、官軍が戦場に到達するまで丸一日、戦場設定は泊軍の意図で決まっています。「平川曠野之處列成陣勢」とありますから、泊軍が布陣したのは広々とした平野と言うことです。
今回は官軍の遠征軍に対する防衛戦で、根拠地での戦いですので、軍争的には泊軍有利です。戦場は広大な平野と言うことですが多少の起伏はありますので、戦地に先に布陣することは孫子の言う『佚を以って労を待つ』意味と泊軍の戦術展開上、より効果的な位置を確保する意味を持ちます。
一方、官軍については多少事情が違います。泊軍が守勢を採るか攻勢を採るかは泊軍の意志の問題ですから、戦地へ急ぐ意味は泊軍に防戦の準備をする暇を与えないくらいの意味しかありません。拠点が一つしかない泊軍の場合、官軍からすると軍争の重要性は薄れますな。
そして、官軍到達当日は両軍とも戦闘を控え、緒戦の火蓋が切られたのは翌朝で、一応双方とも休養は取れていたので、開戦以前の状態はほぼ互角であると言えましょう。
戦術
緒戦で公明哥々が下した布陣は以下の通りです。
・第一陣秦明哥々、第二陣林冲哥々、第三陣花栄哥々、第四陣扈三娘小姐、第五陣孫立哥々
・前軍の五陣は一隊づつ戦いを繰り返し、紡車のように後ろの隊と替る
・公明哥々の本隊は左翼右翼にそれぞれ五名の好漢を配して後詰め
・水軍は水路から応援
・李逵哥々と楊林哥々は歩兵を二手に分けて伏兵となる
今回は陸戦ですので、ここでの水軍は文字通り応援の攻撃支援部隊で、主戦部隊とは考えられません。また、二手の歩兵の意図は”遊軍”ほどの意味で、伏兵とは言っても”伏せ勢”ではないと思われます。用途としては戦況を見て投入し、敵の後方もしくは側面からの奇襲を行ったり、押されている部隊の救援を行う少数部隊でありましょう。
これに対して呼延灼殿の布陣は明記されていませんが、歩兵主体の本隊を前軍とし、重装騎兵三千騎を後軍としていたようです。
戦況の推移からも戦術的な意図を持った布陣と言うより、緒戦の小手調べ的に布いた平凡な陣形であったと思われます。
さて、この状態で戦闘に突入しましたが、公明哥々の戦術的意図はこんな感じでありましょう。
『敵の前線に対して、泊軍は縦列配置された五陣を一隊ずつ当たらせ、疲労したら後ろの陣と入れ替わって最後尾に回り、それを追尾してきた敵に新たな気力横溢した陣で当たり、敵の疲労を待って押しまくり、敵全軍の敗走を導いて撃退する。』
実際の戦況は公明哥々の思惑通りにほぼ進み、彭キ殿を捕らえた上に、官軍は泊軍に引きずり込まれそうになりました。
そして、ここで韓滔殿の指図で官軍は後陣が全面攻撃に移行、公明哥々も泊軍の後陣を左右に分けて官軍の両側から攻撃を仕掛け、前軍と合わせて半包囲陣形を取ろうと図りました。
しかし、意図通りに行かなかったのはここからで、官軍が投入した後陣は重装騎兵部隊だったため、泊軍の装備では打撃を与えることができませんでした。呼延灼殿も状況不利と判断して、全軍を取りまとめて守りを固め、両軍膠着状態となって双方陣をさげました。
ここでの呼延灼殿の戦術眼は流石で、重装騎兵と言う装備と相俟って見事な駆け引きと言えましょう。当面の戦局に固執しないで、被害の小さいうちに一旦態勢の立て直しを図った呼延灼殿は、将に名将の器と言えるでしょう。
また、世間では能なしだなんだと言われる公明哥々ではありますが、もし官軍に重装騎兵・呼延灼殿無かりせば、半包囲陣形に引き込まれた官軍は敗走していたかも知れません。大きな声では言えませんが、呉用殿より確かな戦術眼の持ち主であったと再認識させられます。ただ、惜しむらくは半包囲陣形に移行するまでの推移が、公明哥々の意図的な作戦指導によるものではなく、結果的に妥当な措置となったのが否定できないことでしょうか。
次に二戦目の布陣と戦術ですが、ここからが呼延灼殿の本領発揮と言えましょう。
官軍は緒戦において、甲騎軍の投入で戦線の崩壊を防ぎましたが、この時は甲騎軍は単騎での参戦でした。彼らを三十騎一組の連環馬軍として組織する戦法は、二戦に際して使用されました。
連環馬軍の破陣法として鈎鎌鎗が挙がっていたと言うことは、過去のどこかの戦役で使用されたことがあったと言うことです。恐らくは宋国の戦術ではなく、西夏・遼などの騎馬を得意とする民族で考案されたものでしょう。
呼延灼殿は、この戦法を陣形に組み入れました。前軍に歩兵を配置し、連環馬軍をその後ろに配置していたのですな。それ以外は不明ではありますが、恐らく左軍右軍及び後軍も歩兵もしくは通常の騎兵を以て連環馬軍を囲んでいたものと思われます。
官軍にとっての連環馬軍は”奇”ですから、その発動までは秘匿されているほど効果は大です。泊軍も斥候は当然出していると考えられますから、陣備えとして秘匿性の高い布陣であったと想像されるわけです。しかも、この戦術は集団戦の中に更に小集団戦を持ち込んだと言う意味においても、集団戦の中身が個人戦である泊軍の意表を突くものでした。言わば、二重の意味で”奇”となっていたことになります。
これに対して泊軍の陣形は前軍後軍の構成は同じで、前軍を緒戦の縦列陣から横列陣へと変えました。恐らく公明哥々は緒戦の際のことが頭にあって、半包囲体勢に持ち込むことを意識してこの陣形を採ったのではないかと思われます。しかし、半包囲陣形と言うのは正統的な陣形で緒戦でも使用していることから、”奇”とするには足りません。
一見合理的なように思える陣形ですが、兵数が同数でこの陣形を採ると言うことは、前軍の陣が薄くなることにつながります。つまり、半包囲の体勢を取ったと思った状態が、敵から見ると中央突破の絶好の機会であると言うことです。
緒戦では重装騎兵に驚かされましたが、公明哥々はそれが只の重装騎兵なら泊軍の騎兵でも阻止できると踏んだのでしょう。
実戦では、両軍の対陣後に呼延灼殿が前軍の歩兵を開き、連環馬軍と言う”奇”を発動しました。将に「正を以って合い、奇を以って勝つ」の典型例です。単騎でさえも攻撃力守備力機動力の高い重装騎兵が連環馬軍と言う集団形を取っているわけですから、それらの効果は相乗的に高くなります。
意表を突かれた泊軍が兵の半数を失って脆くも敗退し、頭領たちにも負傷者が出たのも宜なるかな、でありますな。
総括
さて、これらのことを考え合わせますと、兵法に於ける”正”と”奇”の関係が見えてくるような気がいたします。
泊軍官軍いずれもが、”奇”に当たる策で優位に立ち、同じ手を使おうとして劣位に立たされると構図ですね。
緒戦では対陣から縦列陣形を使用した泊軍が優勢となり、半包囲陣形を取ろうとしたところで痛み分け、二戦では半包囲陣形を意図した泊軍に連環馬軍を当てた官軍の圧勝、更に本論にはありませんが、三戦では再度連環馬軍を全面に出した官軍に対して鈎鎌鎗部隊を投入した泊軍の完勝と言う結果となりました。
孫子の言う”正”と”奇”とは、「目に見える状態、想定範囲内の状態」を”正”、「目に見えない状態、想定範囲外の状態」を”奇”と言うことが出来ると思います。良く小説などで出てくるような”奇術”的な戦術戦法が”奇”だと言うことではありません。例を挙げれば「歩兵に対する騎兵」「”労”に対する”佚”」「小兵力に対する大兵力」「持久戦に対する即戦」「休息中の敵に対する夜討ち朝駆け」などキリがありませんな。これらの一つ一つは別に奇抜なことでもなんでもありませんが、ある状況に於いて敵が想定できない形で用いて初めて”奇”としての性格を帯びる分けです。
つまり、一言で言えば敵にとっての”奇”とは、「まだ表面に現れていない、意表を突かれる策」と言うことでしょうか。逆に言えば、一度発動されてしまったものは、その時点で既に”奇”ではなく”正”であると言うことです。ですから、同じ策を続けて使う場合にはそれが既に”正”であると言う意識なしに使うと、敵の”奇”策の返り討ちに遭うんですな。優位にある敵に対して自軍の劣位を挽回しようと図るのは当然のことですので、”同じ手を喰う奴はいない”と言うのが兵法の大原則だということがお判り頂けたのではないでしょうか。
では、今回の特別講習はこれまでといたします。