<八犬伝と水滸伝序>
さても、八犬伝は面白し。今を去ること幾星霜、幼心に想ふやう、日テレ水滸と並びしは、NHKの『新・八犬伝』にこそあらめ。酔蝗遊びの最中にあれど、「あなや。はや八犬伝の時間となりつ。我帰らばや。」と言ひも果てず、赤兎も斯くやと奔りたり...
因果は巡る糸車、斯くて月日は隔てたり。立志の齢過ぎ果てて、水滸サイトを営めど、とある市にて出会いしは、『南総里見八犬伝』となん題されたり。『こを購はざれば、何をか購はんや。』とて、財布の中身見も和へず、書籍の束をば引っ掴み、レジを目指して馳せにけり...
と言う訳で、水滸伝と同じくらい八犬伝が好きだったんじゃよ、わしは。で、久しぶりに出会ったのが原典の『南総里見八犬伝』じゃ。当然文語じゃが、もう面白くって面白くって、たまらんな。
子供の頃に見た、NHKの『新・八犬伝』は子供向けにアレンジしてあって、子供向けの本も読んだんじゃが、やはり原典には敵わんな。なにせ、曲亭馬琴の文章じゃから、文体流麗、博覧強記、和漢の古典を縦横に駆使して書かれておる。じゃから、そこかしこに「あぁ、ここはあれの引用だ」なんちゅう箇所が山のようにあって、興味が尽きんのじゃよ。
しかも、中断したものの曲亭馬琴はこれ以前に『新編水滸画伝』を訳出しておって、『南総里見八犬伝』は水滸伝をモチーフとしておるんじゃよ。つまり、アイデアを流用したんじゃな。基本的な内容は『水滸伝』とは違うんじゃが、やっぱり共通点が多々見られるようじゃ。ちなみに『椿説弓張月』は源鎮西八郎為朝が主人公で、こちらは『水滸後伝』がモチーフじゃと言われておる。
さもあらばあれ、これだけ材料が揃えば何か書かずばなるまいよ。今までにも『水滸伝』と『南総里見八犬伝』の類似点を書いた人は数々いるんじゃが、ここは一番、わしの思い込みに従って、いろいろ書いて見ることにしようかの。
じゃが、何分日本最長の小説で、わしの持ってる有朋堂版『南総里見八犬伝』全六巻でも、総ページ数で四千百九十一ページの大著じゃから、何度かに分けて書く予定じゃよ。
で、今回は初回でまだ一巻全部読み終わってないから、『南総里見八犬伝』とその周辺の概略だけ書かせてもらいますわい。
さて、作者の馬琴じゃが、この人「曲亭馬琴」とも「滝沢馬琴」とも言われとるようじゃな。これはじゃな、馬琴が武士の出だからじゃよ。本名は滝沢瑣吉清左衛門、戯号が「曲亭馬琴」だそうじゃよ。
父親は幕臣松平信成と言う人の用人をしておって、馬琴は三男だったらしい。まぁ、下級武士じゃな、いわゆる。父親が早くに亡くなって徒士奉公もしたらしいんじゃが、意地っ張りな性格で宮仕えに嫌気が差したらしく、ややあって山東京伝に入門したんじゃよ。ここから、作家としての人生が始まったんじゃな。
さぁ、『南総里見八犬伝』じゃが、初輯が出たのが江戸後期の文化十一年(1814年)、馬琴四十八歳の時じゃ。完結したのが天保十三年(1842年)馬琴七十六歳じゃから、延々二十八年間に渡って書いていたんじゃな。しかも、七十四歳の時に失明してしもうて、早世した息子の嫁に口述筆記させて完成させたと言うんじゃから驚きじゃよ。将に執念の著作、ライフワークと呼ぶに相応しかろう。
次に内容じゃが、これを書くとそれだけでもサイトができる程じゃから、これは白龍亭殿にお任せいたしましょうかな。とは言え、何もないと全くご存じで無い方に申し訳ないので本当に簡単に書いておきましょうかの。
『安房里見家の伏姫の自刃の際飛び散った八つの玉の因縁をそれぞれに持って生まれた八犬士が、波瀾万丈の出来事を乗り越えつつ里見家に集い仕えて活躍する、儒教道徳をベースにした勧善懲悪の痛快娯楽活劇』
とでも言えばいいのかの(汗)こんな短い文章では到底言い尽くせないんじゃが、なんとなく『水滸伝』と相通じるものがあるじゃろ?あくまでも”相通じる”んであって、”似ている”わけではないんじゃが。
わしが思うに、一番違うのはベースとなる精神じゃろうか。八犬士は”玉”に浮かび上がる”仁義礼智忠信孝悌”の文字が象徴する如く、武士社会の基本理念と言うか日本人の精神的拠り所とでも言うか、兎に角儒教が行動の基準なんじゃ。就中、主家に対する”忠”が全てに優先する最高理念じゃな。
ところが水滸伝の好漢は”忠”とか”孝”とか時には言うけども、最高理念は”義”じゃろう。それも儒教的な”義”と言うよりもヤクザ同士の”仁義”に近いニュアンスじゃ。当然、勧善懲悪ではないしの。好漢達の”善”は彼らの”義”に鑑みての”善”じゃから、道徳的な”善”からは程遠いわな。『青少年には読ませるな』と言われていたのも已むを得んじゃろう。
いずれにしても、主人公たちの性格設定の違いなんじゃろうな。八犬伝にしても、元から武士として育ったものばかりではないから、武士の道徳に縛られている訳ではないしの。ただ、勧善懲悪をメインテーマに物語を構成しようと思えば、読者が納得する形の性格設定として、当時の道徳規範だった儒教色を主人公に持たせた方が無理がないと言うことなんじゃろうな。わしたちが「八犬伝」や「水滸伝」を”現在”の価値観で読もうとすると、「ちょっと違うかな?」なんて思う人もおるじゃろう。それはある意味、「八犬伝」や「水滸伝」が『古典』であることの証明であるとも言えるんではないかの。
じゃが、「八犬伝」や「水滸伝」も別に”道徳書”ではないし、読む方も書く方も娯楽作品じゃと思っていたからこそ、どれだけ時間が経っても廃れないで”名作”として名を残しておるんじゃと思うよ。
武士が主人公である『南総里見八犬伝』と、盗賊が主人公の『水滸伝』。どっちも面白いから、読み比べてみるといいじゃろ。