<八犬伝と水滸伝五>
では、八犬伝の中に見られる、『こんなところにちらっと水滸伝』と言う所を御紹介しましょうかの。あくまで「思い込み」と「思い入れ」の産物じゃから、実際ご自分で読んでみるのが一番じゃよ。今回は第九葺巻之二十八 第百四十四回から第九葺巻之三十三 第百五十五回までの範囲で見つけたものじゃ。
第九葺巻之二十八 第百四十五回の最後、馬琴先生がおっしゃってます。「俺は水滸伝の真似をして、日本にいない虎を自分の小説に三回も出した。(傾城水滸伝・新編金瓶梅・それからこの八犬伝ね)でも、趣向は全部違っていてダブッてないから、読んでる人は安心してね。」
本当に好きだったみたいね、水滸伝(笑)
同志よ〜
『第九葺巻之二十九 簡端或説贅辯』は水滸ファン必見!馬琴先生の水滸観と編者批評が出てます!抜粋を編訳するとこんな感じ...
「ある人が八犬伝は素藤の話のあたりから怪談が多くて、怪談嫌いな人は飽きるんじゃないかと言った。でも、そんなことはないぞ。西遊記だけじゃなくてあの水滸伝だって、怪談が出てくるぞ。最初に百いくつかの魔を逃がして、終りに百八の好漢が集まって宋朝に忠義を尽くすのは、作者の隠微なんだよ。それに、羅真人公孫勝の仙術、戴宗の神行、樊瑞高廉の幻術、九天玄女の霊験冥助、こんなのは皆怪談だよ。それなのに金聖嘆の評には、『三国志に比べて、水滸伝には少しも怪談がない。』と言ってるけど、笑わせるぜ。それはともあれ、八犬伝も始めから怪談を趣向にしたんだよ。・・・」
「ある人が八犬具足して里見の家臣になる段は大団円だ、この後の京の話は無駄じゃないかと言った。そんなこと言うなよ。これは最初からの予定だよ。だって、八犬士が里見の家臣になるだけなら、親兵衛以外は無駄飯喰らいじゃん。八犬士がそれで良い筈ないだろ。それに都の話がなけりゃ、関東だけで話が狭くなる。長編小説に相応しくないだろが。例えば水滸伝だって、70回の後に招安や都の話があるじゃん。あれがあるから、百八の魔が忠義の士になれるんだよ。もしこれがなくて70回で終わったら、好漢たちは梁山泊に集まった只の盗人じゃん。どうして勧善懲悪の話にできるのよ。このことから考えると、水滸伝120回本は羅貫中が書いたに違いない。なのにあの金聖嘆は70回より後を非難して、続水滸伝として馬鹿にしやがった。ああ言う奴は水滸伝の皮肉を知るだけで、骨髄を分かっちゃいないな。だから、ある人が八犬伝を八犬具足で終わらせれば良いなんて言ったのと、金聖嘆が水滸伝を70回に腰斬したのは同じことだ。・・・」
推して知るべし...
細川政元に絵から抜け出た霊虎退治を依頼された犬江親兵衛。供も連れずに一人で虎退治に。白川山の山中で、突然虎に襲われるが、名馬走帆の健闘もあって、二矢で虎の両目を射抜く。親兵衛はぐったりした虎に馬から下りて近付くや、右の拳で虎の眉間を連打、骨が陥没して遂に虎は倒される。
猪だけじゃなかったでしょ?遂に出ました、虎退治。勿論武松の景陽岡の一下りですね。最初から素手じゃないのは、この虎が元々絵に描いた虎で、眼を入れていなかったものに眼を入れたら実体化したので、親兵衛は眼をまず潰そうと考えたからなんですね。
ついでにもう一つ。虎の攻撃方法について、「嘘か本当か、元人羅貫中が水滸伝で言っている。虎が人を襲う時、三度失敗すると用心して、ちょっと退いて様子を窺うらしい。」
この虎もそんな感じ...
虎騒動が治まった後、将軍義尚は例の絵を父義政に献上した。献上された絵を珍重していた義政の元にある日、大徳寺の一休宗純(実は幽霊?尸解仙?)が訪れる。義政は一休に巨勢金岡の描いた絵について、なんで瞳を入れれば抜け出すと分かっていたのに鎖を描かなかったのか、そもそもこの絵を持ってきた行童は狐狸妖怪の類だったのかを問う。
それに答えて一休は、かの虎の騒動は義政が驕奢を好んで民衆を憐れまず、為政者として恥ずべきことの積み重ねが招いた天の報いであって、絵そのものの是非など大したことではないと諫言する。
さて、ここで一休さんが義政を諫める中で引き合いに出されたのが、大宋の徽宗皇帝です。賢臣を遠ざけ佞人を用い、花石綱を起こして驕奢を極め民衆を虐げ、その報いとして金国は侵略してくるは、宋江方臘は叛乱を起こすは、宮中に物の怪が現れて被害少なからず、挙げ句の果てに国は滅んで金国に囚われ、異郷で死ぬことになったと言っています。
反面教師と言う意味では、徽宗皇帝の存在もあながち無駄とは言えませんね。哲宗が死ななければ、宋代の文化を担った皇族として、美名を残せたかも知れない人なのになぁ...
『八犬伝第九葺巻之三十三簡端附録作者総自評』には、編訳するとこんなことが書かれています。
「・・・小説は架空の絵空事で、ちょっとした暇潰しのためのものだけど、中国にも日本にも昔から優れたものがあるよ。宇都保物語・源氏物語は色っぽくて華やかだし、水滸伝・西遊記は奇抜で巧妙、こういうものは皆小説の名作で良いお手本だけど、文句を言わせて貰えば源氏物語はラブストーリーばっかで勧善懲悪がはっきりしないし、水滸伝は勧善懲悪が隠されていて気が付く奴がいなくて、ちょっと見は豪傑の任侠物みたいで残念だ。ちゃんと分かってる奴も分かってない奴も、俺みたいな曲学阿世の小説家で、そう言う小説の真似をしようと、つまらないものを書いてる奴が中国日本に山ほどいるぜ。そう言う小説をモチーフにした、オリジナリティのある優れた小説はほとんどなくて、そのまま下敷きにした似て非なるものばっかりだ。昔の作家は小説を作る時、昔実在した人の姓名は使うけど、事跡は別にするもんだ。光源氏、かぐや姫、水滸伝の宋江たち三十六人、晁蓋高きゅう、西遊記の三蔵法師など言うまでもない。足りない登場人物は創作する。水滸伝の地さつ七十二人、西遊記の孫悟空、猪悟能、沙悟浄など数え切れない。・・・それを正史の事実と違うとあげつらう奴もいるけど、馬鹿馬鹿しい限りだ。・・・」
ご尤も...
「・・・中国の長編小説の作者は皆よく勉強していて、君子の道を知らない人なんかいない。それをその小説の中にHなところがあると、分かってない奴は作者が読者の好みに媚びてこんなことを書いてるんだと思うけど、そうじゃない。作中でHなことをするのは残忍凶悪な男女で、善人はそんなことはしない。例えば水滸伝で武大郎の妻潘金蓮が西門慶と姦通し、楊雄の妻潘巧雲が裴如海と姦通するようなもんだ。潘金蓮、西門慶、潘巧雲、裴如海は最低最悪、畜生にも劣る大悪人だ。この淫乱な男女が、不義の淫欲に耽るのを読む人はうらやまないだろ?これが勧善懲悪のポイントで、後で姦淫を戒める作者の謎掛けを考えろよ。・・・」
潔癖性なのね、馬琴先生。そこまで言い切るか。Hなことをする奴らは、最後はその報いで殺されちゃうんだぞ〜と言いたいんだと思うけど、わしはちょっと羨ましかったりして...
関東管領扇谷定正が、八犬士を恨んで関東の諸将を召集して安房を攻めるとの知らせに、里見義成以下老臣八犬士は対策を練る。その中で、犬坂毛野は軍師に任命され、犬村大角と丶大法師に水軍火攻めの下準備の秘策を授けて、敵地の武蔵柴濱に潜入させる。
さて、こちらは管領連合軍。軍を二手に分けて、一手は陸路から、一手は海路から攻めると決めたが、何分水戦不案内でどこから渡海すればいいかが分からない。取り敢えず、土地の漁師に聞いてみようと柴濱で聞き込みをしていると、赤嵒百中と名乗る売卜が『黙って座ればぴたりと当たる』とやっていた(実は犬村大角)。定正は里見攻めの吉凶と風の有無を尋ねると、百中は占って滔々と卦を述べる。
この後、順風を起こせるかと聞かれた大角の百中は、自分は出来ないけど師匠の風外道人ならできると、これも丶大法師の化けたのを紹介する。風外道人は甕襲の玉を使って風を吹かせて定正を信用させる。
赤嵒百中は、北京に盧俊義を誘うべく潜入した、呉用の化けた占い師談天口が下敷きかな?風外道人は言わでものことながら、公孫勝テイストですね。さて、この後どうなるか?水滸伝ファンなら、想像付くでしょう(笑)
と思ったら、あら残念。三国志の赤壁の戦いが下敷きでした。火攻めの時にもう一回甕襲の玉で風吹かせたら、水滸伝なんだけどね。
今回はここまでじゃ。また、続きは次回に載せるから、読み進むのを待っとるようにの。