<刑罰>
刑罰についてなら、俺一枝花 蔡慶の担当だな。兄者でもいいんだけど、兄者人前苦手なんだよ。
梁山泊では一応俺達が処刑担当の統領なんだけど、全然仕事がないんだよな。まぁ、いいことなんだけど。だから、入山以前に牢役人兼首切り役人をしてた頃の話をちょっとしてみるかな。
何か犯罪を犯して捕まって判決が下ると入れ墨をされるんだけど、あれが最初の刑罰なんだ。「黥刺」と言うんだけど、顔に入れる入れ墨のことだ。あれは針で入れるから、「黥刺」と呼ぶんだよ。
罪によって、字体、場所、配列、形を変えたんだよ。窃盗とかだと耳の後ろに入れ墨されるけど、林師範は頬、武行者は額と場所が違うだろ。あれは、徒刑(懲役刑)とか流刑の場合なんだ。形は四角く、配列して入れるのさ。時々出てくるだろ、「何州へ流罪」って奴だ。もうちょっと軽い杖刑(棒叩き)くらいの罪だと、四角じゃなくて円く文字を配列して入れ墨したんだよ。そんで、林師範たちみたいに入れ墨の上に牢城送りになることを「刺配」と呼んだんだ。
それから棒叩きにされるだろ。杖刑って言うんだけど、あれとか竹の鞭で叩く笞刑とかはちゃんとした規定で回数を金で買えたんだ。銅十斤払えば百叩きが七十叩きになる、と言う具合に。
重罪の死刑の場合、「凌遅」の刑が採用される。「凌遅」だとピンとこないかな?と言えば判るかな?そう、西門慶と潘金蓮をそそのかし、武大を殺させた王婆の時の死刑がこれだね。”寸刻み”とか”八つ裂き”とか訳されてるけど、一番近いのは李逵が黄文炳を殺した方法だな。一気に殺さずに、ちょっとづつ肉を削ぎ取っていって、ゆっくり殺す刑だ。
叛乱を起こした田虎、王慶、方臘も皆「凌遅」だから、王婆の罪状は人倫に鑑みてかなりの重罪だと判断されたんだな。
江州で宋江兄ぃと戴院長が斬首と決まった時、黄孔目がやれ日がどうのこうのと言う下りがあるけど、これにも決まりがあるのさ。蔡九知府が言ったように謀反とかの重罪犯は別だけど、それ以外は死刑を執行するのは秋分から春分の間で、しかも忌み日、祭日、二十四節気、朔日、十五日、上弦下弦の日、雨の日などは処刑できない決まりになってたから、実際に処刑可能な日と言うのは意外なほど少ないんだよ。
しかも一日のうちでも、午後とか、夜明けとか時間指定もあったから、死刑と言うのはそんなに簡単じゃなかったものなんだよ。
江州でもそうだったけど、処刑の前には酒と食事が供される決まりもあった。そして、家族との対面も許されていたんだ。で、処刑の監視人が必ずいるんだけど、これが重要な人物なんだな。
最後の食事や家族との対面を観察してるんだけど、冤罪や誤審のような場合は本人に罪の意識なんて当然ないから、そう言うことが表情に表れるものなんだよ。それを監視人は見ていて、おかしいと思ったら処刑を中止することもあったんだ。それで実際に間違いに気付いたこともあったらしいね。
結構、合理的な仕組みだと思わないか?