<農民起義?>
なんでも中国共産党では”水滸伝”を農民起義の文学と呼んでおるらしいけども、どうなんじゃろ?今回はちょっと思うところを書いてみるんじゃが、いつもの如く根拠はないから、そのつもりでの(笑)
※ちょっと長いぞ。
どこの国でも時代でも、農業、商業など定住することを基本として経済基盤を確立しておる人々がおるが、これらの人々は常民と呼ぶべき人々じゃな。官の支配を受け納税の義務を負って、戸籍というかその所在を確認されている、言わば一般ピープルじゃ。
これに対して、定住しない人々がおる。遊民じゃな。遊民とは遊ぶ人々ではのうて、”さすらう人々”のことじゃ。旅芸人、旅で修行する求道者、遊侠、犯罪者...
彼らは基本的に”土地”に依存しておらんから、常民の持つような”お隣さん”的な連帯感、”土地を中心にしたアイデンティティ”は持っておらんな。と言うことは、彼らを守るものは自分の力と極少数の仲間のみと言うことになろうかの。そこでの紐帯は”義”じゃ。この”義”は、孔子サマが唱えるような義とはまったく違う種類のもんじゃな。孔子サマの”義”は正義ほどの意味じゃが、かれらの”義”は”命よりも重たい約束、信用”のような意味合いで、かれらの最も崇高な行動理念じゃ。
わしが思うに、遊民は好漢予備軍もしくは好漢を形成するための温床じゃな。
遊民の中でも、特に遊侠(ばくち打ちとか、やくざものの類じゃ)、犯罪者は堅気ではないから官憲の追求も厳しかろうし、安定した経済基盤とは程遠い生活を迫られることになるじゃろ。
そう言う遊民にとっては、宋江やら柴進やらのように常民でありながら遊民を理解し、保護してくれる連中は、それだけで虚名が高くなるのは当然じゃろ。そこに、宋江が梁山泊の首領に推戴される遠因があるんじゃなかろうかな。
遊民の中でも力のあるものは、土地に定着するようになることもあるじゃろ。その場合、一番確実なのは官憲と癒着することじゃな。所謂、”二足の草鞋”じゃ。水滸伝では、施恩のパターンじゃよ。
それから、朱武や燕順、樊瑞、周通、欧鵬、初代梁山泊首領の王倫たちのように同様の仲間を募って、”賊”として旗揚げすることじゃな。
もう一つは、張青夫婦や李俊、李立、童兄弟、張兄弟のように表向き常民を装うことじゃよ。
いずれにしても、常民の中からは絶対に好漢は生まれないじゃろう。好漢とは、世間の一般常識の範疇に収まらない絶対の価値観を持つ連中じゃから、常民では行動に制約が多すぎて、必ず常民から遊民へのドロップアウトと言うプロセスが必要になるんじゃ。ドロップアウトすることで、”アウトロー”としての立場を確立して、法や常識からの束縛を逃れて”義”を至上の倫理とする者達、それが好漢じゃよ。
中国では王朝交代が数多く起こったし、倭国や朝鮮のような生まれによる身分制が確立してなかったから(政権が変わっても踏襲されるような身分制度はなかったと思ったが...)、遊民化した常民が”賊徒”となることはあっても、農民起義なんぞと言うポリシーを持った革命運動が起こるのは、ずーっと後のことじゃな。
もっともそれに近いのは陳勝呉広の乱じゃが(王侯将相いずくんぞ種あらんや、とは名言じゃな)、革命と言う言葉のニュアンスがかつての中国ではちょっと違っていたんじゃ。”易姓革命”と言う奴じゃが、これは”失政の為に天の命で支配者の姓が改まる”と言ったような意味合いじゃから、西洋で言う革命のように”支配階級を倒して、民衆の手に政権を帰す”ようなものとは、根本的に異なったものじゃ。
例えば、明の太祖朱元璋なんぞは元托鉢僧、と言えば聞こえはいいが、実体は乞食坊主じゃったが、皇帝にまで登り詰めた男じゃ。街のちんぴらだった漢の劉邦もしかりじゃろ。
と言うことは、中国では次の王朝の支配者に血筋やら血統やらは無縁のものだったと言うことじゃな。じゃから、一般の民衆も士大夫層も皇帝の出身なんぞはなんとも思っていなかった。つまり、支配者階級から民衆の手によって政権を奪い取ると言うよりも、中華においては一般民衆でも次世代王朝の支配者になり得ると言う意識が強かったんじゃろうと思うな。寧ろ、そう言う連中に乗っかって、一旗揚げてやろうと言うようなバイタリティ溢れた民族なんじゃろうな、中華の民は。
敢えて言うなら、彼らが唯一共通のアイデンティティを持って立ち上がるのは、異民族支配から脱却を図る時だけじゃろう。
大雑把に言ってしまえば、中国の歴史は漢民族国家の政体が弱体化するとそれに乗じて異民族が中原を制覇すると言った、漢民族国家と異民族国家(と言うよりも騎馬民族じゃが)の交代劇の繰り返しなんじゃよ。
”中華”と言う言葉が示す通り、漢民族にとっては自分たちの文化こそが文明である、と言った意識が強くて、異民族の習俗やら文化に対するアレルギーがひどかったんじゃ。ただ、それは文化に対してであって、属する民族で差別するような意識は低かったようじゃな。異民族でも漢民族と同じ文字、言語、習俗を持つものは中華の民であると認識されていたようじゃ。
じゃから、異文化を強要する異民族国家に対して漢民族が立ち上がった反乱は、革命と言うよりも民族解放と言うべきものなんじゃな。
と言うような目で水滸伝を見ると、どこからどう見ても農民起義、農民革命と言う言葉にはつながらんと思うんじゃが、中共が敢えてそう言っていたのも本気と言うより一種のプロパガンダだったんじゃろうな。
やっぱり、水滸伝は純粋にアウトローたちの夢のお話なんじゃと思うな、わしは...