<誰?(その他編)>
水滸伝には本編に直接かかわらないが、名前の出てくる人がおっての。中には誰でも知ってる人もおれば、意外にも知名度の低い人もおる。そこで、そんな人たちをちょっと御紹介してみようかと思いましてな。今回は好漢のご先祖とか引首にちらっと出てくる人たちじゃよ。
包拯
宋の仁宗に仕えた進士で、監察御史・天章閣待制・竜図閣直学士・枢密副使を歴任した偉〜いお方。水滸伝の第一回で、生まれてから泣きやまない仁宗を直しにやってきた太白金星が言った、文曲星にあたります。
開封の知府をやってた時に公明正大で、偉い奴でも悪人はビシバシ取り締まったもんで、正義のヒーローになりました。『包公案』『三侠五義』なんかでも正義の味方の裁判官です。元祖大岡越前です、と言うか日本の名奉行モノの下敷きだったりする人です。
そう言うわけで、道教の世界では四大閻羅の一人と言われて神様になりました。閻魔さまですね、所謂。ちなみに他の三閻羅は、韓擒虎(隋)・寇準(宋)・范仲淹(宋)で、皆今時はちょっといない清廉潔白な政治家です。寇準と范仲淹は『宋名臣言行録』にも挙げられてます。
狄青
宋の仁宗の時の人で、北宋代きっての武人のエース。水滸伝の第一回の中で、包拯の文曲星に対する武曲星にあたります。
西夏戦と国内叛乱鎮圧に多大な功績がありました。この人、元々は近衛騎兵の下級将校ってとこでしたが、西夏との戦いでは軍功抜群、范仲淹とか韓キなんて言う公明正大な人達の引きで将軍に抜擢されました。知勇兼備で人柄も良く、統率力も完璧と言うスーパーマンだったみたいです。
南方の叛乱を平定する時、銭を百枚投げて「全部表なら勝利間違いなし!」と言ってやってみたら全部表だったので、部下の志気がいっぺんに上がって無事叛乱を平定したそうです。が、狄青の持っていたこの銭、元々裏のない銭、どっちも表の銭を用意していたと言うんだから、結構お茶目な将軍です。日本でもその手使った人がいたような気がするなぁ。
関羽
字は雲長。関勝の祖先にして、朱仝の渾名の元祖。三国時代の蜀の劉備に従って武名を馳せた超有名人。今更説明の必要もないでしょうから、詳しい履歴は三国志系のサイトでご覧ください。
道教の世界では関帝と呼ばれて人気者の神様です。武神としての属性もさることながら、財神としても有名。横浜中華街にもありますな、関帝廟。宋では真宗の時に『武安王』、明では『三界伏魔大帝神威天尊関聖帝君』、清では乾隆帝の時に『忠義神武霊佑関聖帝君』と度々神号を封号されています。生きていても凄い人は死んでも凄いのね。
呼延賛
宋初の人で、太祖太宗真宗に仕えた武人。呼延灼のご先祖に当たる人。
『宋史』によると若い頃から武人として嘱望され、常に先鋒を務めて満身創痍、前線の軍官を歴任したらしいです。自分や妻、使用人の身体に「赤心殺賊」と刺青し、子供たちの耳の後ろには「門を出れば国のために家を忘れ、陣に臨んでは主のために死を忘れる」と刺青してたんだって。わしの親父じゃなくて良かった(汗)武芸は鉄鞭、棗槊、降魔杵その他も使ったみたい。
『楊家将』(北宋志伝)では物語最初の主人公です。『説呼全伝』は呼延賛の孫・曾孫のお話です。
柴栄
五代十国の後周の世宗。柴進のご先祖さんに当たります。
なかなかの”英君”で、即位早々侵攻してきた北漢・契丹連合軍を撃退し、内政改革・軍制改革を行い、回復された国力を背景に後蜀・南唐に出兵し、後顧の憂いを絶った上で、燕雲十六州回復のために契丹親征を行った。が、その途上で惜しくも病没。享年三十九才だそうです。
その半年くらい後です、殿前軍都点検の趙匡胤が陳橋駅で諸将に擁立されて帝位についたのは。言ってみれば無血クーデターって奴ですけど、柴進がよく言うように趙匡胤はちゃんと柴氏の子孫を保護することを家訓としてたんですね。しかも宋代三百年間それが守られたてんだから、大したもんです。
楊業
五代十国から宋初の武人。楊志のご先祖さんです。
『宋史』によると子供の頃から任侠の人で、若くして北漢の劉祟に仕えて武功衆に抜きん出て、人から「楊無敵」と呼ばれました。宋の太宗の北漢親征時、主君の降伏とともに太宗に仕え、以後対契丹戦で活躍しました。雍煕三年に大規模な北征を行った時、潘美・王イ先らの無謀な作戦に反対したけど通らず、そいつらが功を争って大敗した後を引き取って力戦し、身には数十創を負い、士卒は殆ど全滅、敵を数十人殺したけど馬は傷を負って進めず、遂に契丹に捕虜になっちゃうんです。んで、「陛下はわしを厚遇されたので辺境で賊を討つことを以って報いたが、姦臣のために撤退し敗れるに至った。何の面目あって生きていられようか!」と言って、何も食べずに三日目に餓死するんです。格好良すぎ〜(泣)
『楊家将』だと潘仁美に見殺しにされて、敵中を突破した後に李陵碑に頭ぶつけて自殺します。